保存情報 第109回
登録有形文化財 寂照寺 山門・金比羅堂・観音堂 林廣伸/林廣伸建築事務所
金比羅堂( 左) と観音堂( 右) 山門 金比羅堂棟木墨書
■紹介者コメント
 寂照寺の創立は、延宝5(1677)年、総本山知恩院第37世門主玄譽寂照知鑑により、徳川秀忠の娘千姫(天樹院)の遺言で菩提を弔うことに始まる。その後、一時衰退したが、安永3(1774)年に知恩院門主第57世檀譽上人の命により、月僊玄瑞上人が当山第8世を襲名して伽藍の再興に着手し、本堂・庫裡・経蔵・山門などを次々と再建し、旧規に増して立派な伽藍を築いたという。
 このうち、本堂・庫裡は明治14(1881)年焼失したが、内部に八角輪蔵を有する経蔵は、寛政12(1800)年春に着工、享和3(1803)年秋の竣工で、三重県指定文化財となっている。その他の山門・金比羅堂・観音堂を今回登録有形文化財として申請した。
 山門に掲げられた扁額は天台座主であった真仁法親王の筆によるもので、文化2(1805)年、親王が伊勢参宮の折、当山に立ち寄られた際に賜ったものであるという。扁額の表には山号の「栄松山」、裏には「文化二乙丑六月二十壬申日」の年記があり、文化2年以前に建立されたことが知られる。
 金比羅堂は経蔵の南側に位置して西を正面にして建つ。天井中央の鏡板に描かれた龍の絵の脇に「天保十年 歳在己亥仲冬 雲僊」の墨書があり、月僊上人入寂(文化6年:1809)後の天保10(1839)年頃に完成したことが知られる。また、調査時には棟木にも同年の年記が検出された。
 観音堂は経蔵・金比羅堂の南側の一段高い石垣上に西を正面にして建つ。建立時期は不明であるが、19世紀中期頃のものではないかと推察される。
 これらの近世後期の遺構である経蔵・金比羅堂と観音堂が3棟並んで西を正面にして建つ構成は、寂照寺の伽藍を特徴付けている。

所在地:伊勢市中之町101 ※境内参詣自由。ただし本堂を除く堂内見学はご住職に依頼してみてください。
参考文献:『三重県史 別編 建築』(編集発行:三重県 平成15年3月31日発行)
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 豊橋市民俗資料収蔵室(旧・多米小学校校舎) 鈴木利明/日本設計
通称・花柄山を背景にした全景 ギャラリーに変身した広い廊下 昭和30年代を再現した教室風景
■発掘者のメント
 旧・豊橋市立多米小学校は私の学区の隣、田園地帯の縁部の山懐に穏やかに息づいていた。今や、豊橋に残る唯一の木造校舎で、戦局厳しい昭和19(1944)年に「多米国民学校」として建設され、即・敗戦の物資難の時代は地域を挙げて略奪・荒廃から守ったとの語り草もある。
 昭和30年代以降も原形を発展させてきたが、その後、近接地の新校舎に全面移転し、旧木造校舎は昭和53(1978)年から、近郷の民俗資料を保管展示する「豊橋市民俗資料収蔵室」に生まれ変わり、当地・近代の生活道具から産業発展の足跡を密やかに発信し続けている。
 山裾に伸びやかに甍(いらか)を連ねる木造校舎の佇いだけでも郷愁を誘うのに十分であるが、中に入るとますます懐かしい空間構成を体感できる一方、後世に語り継ぐべき物的リニューアルや地域運営が実感できるのが嬉しい。
 子ども心にひたすら広く長く大きく映った廊下は今、各テーマ展示室(旧・教室群)への導入空間として役割を果たし、高い天井の両端に連なる方杖のステッチ模様のような繰り返しが小気味よい。よく見れば、木製面付ブレースなどの耐震補強(平成20・2008年) など、再生努力がそれなりに馴染んで共存している。
 旧・教室の一つは、古く小ぶりの机・椅子などを集めて昭和30年代の(小学4年生の)教室風景を再現しており、これはまた、たまらなく懐かしい。過年平成18(2006)年の市制100周年(「とよはし百祭」)の折に封切られた地場映画「早咲きの花」の、戦時を生きた子どもたちの日常場面の撮影ロケ地としても地元では有名である。

所在地:愛知県豊橋市多米町滝ノ谷34
建設年:昭和19(1944)年(『多米国民学校』より)
転用年は和53(1978)年(『豊橋市民俗資料収蔵室』より)
構造・規模・建築面積:木造・平屋建 1,300㎡
公開状況:毎週土日(10:00 ー16:00) 入館料 無料
問合先:TEL 0532-63-2026
アクセス:豊橋市電「豊橋駅前」より「赤岩口」下車、豊鉄
バス飯村岩崎線に乗り換え「柳原団地」下車、徒歩3分