かわづくり×まちづくり
           第6回
プロセスと政策のデザイン

秀島 栄三
(名古屋工業大学大学院工学研究科准教授)
ひでしま・えいぞう|
1992年京都大学助手
1996年博士(工学)
1998年名古屋工業大学講師
2000年JICA 長期専門家を経て現在に至る。
専門は土木計画学。
著書に『土木と景観−風景のためのデザインとマネジメント』(学芸出版社)、『環境計画―政策・制度・マネジメント』(共立出版)など。
国土交通省中部地方整備局入札監視委員会委員、愛知県尾張地域水循環再生協議会座長、名古屋市行政評価委員会委員、㈶名古屋都市センター企画委員などを務める。
プロセスとその表現
行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶ泡沫は、且つ消え、且結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と住家と、またかくの如し。
 鴨長明「方丈記」の始まりは、目の前に流れる水を再び見ることはない、そのような日本人の無常観を表している。一方、最近使われるようになった「水循環」という言葉は、目の前に流れる水はいつか戻ってくる、そういう有限性のイメージを与える。千年を経て地球は狭くなってしまったのかもしれない。水や川そのものは変わらないだろうが、認識、世界観はこれからも変わる可能性がある。私たちが科学や技術を身につけていくほどに変わっていくことが想像される。

 この式はNavier-Stokes方程式という土木工学や機械工学を修めた人ならば誰でも知っている流体の運動を記述する式である。河川の流れもおよそ当てはまる。物事が変化するプロセスはこのような時間変数を伴う微分方程式によって表現するのがうまいやり方と言える。少なくとも多くの工学者はそう信じている。
 形あるものは人々の記憶にとどまりやすい。「移ろい」はとらえにくい。忘れられやすい。しかし「かわ」も「まち」も絶えず動いている。変化している。自分が関わってきたまちづくりの事例で言えば、当初は「大学」「学生」がどう関わったらいいか当方も地域もよく分かっていなかった。学生はアルバイトなどで意外と忙しい、議事録を書き慣れると力になる、そういった知識がさまざまな体験を経て蓄積されていく。かたや必要がなくなって忘れられていく技能やノウハウもある。「かわづくり」「まちづくり」に見るダイナミクスを的確にとらえ、また関わり合う人の間で知識や経験が積み上げられ、地域の資産となっていくプロセスを着実にたどっていくことはとても大事である。(→第1回「都市河川を地域資産ととらえる」)
 随筆も数式も表現である。表現は専門性の発達を促す一方で多くの人に直観に訴える形でわからせる力も持っている。コミュニケーションツールは他にもたくさんある。共通の問題を考える場、筆者は「プラットフォーム」と呼んでいるが、関係する主体が多様になるほど、問題が複雑化するほどコミュニケーションを円滑化させるプラットフォームが重要になる。プラットフォームが形成されることで時間差を伴う出来事(案件)も同じ俎上に載せて議論され、それぞれが場に適応したものに仕立て上げられていく。当事者らがプラットフォームを重要と認識している場合に限っては、彼らが能動的に作り上げようとするプロセスと、自然的に形成が促進されるプロセスとがシンクロするように思われる。プラットフォームに決まった形はないがICT技術が活用されることで今後さらに進化していくことは間違いないであろう。(→第2回「木曽流域市民放送局」)


水循環のイメージ図(出典:愛知県ホームページ「あいち水循環再生基本構想」)
かわづくり×まちづくり×政策づくり
 昨年12月より隔月で「かわづくり×まちづくり」と題して本誌の貴重な紙面を頂戴してきた。ところが「かわ」をつくる話も「まち」をつくる話もしていない。そもそも自然環境である「かわ」を一からつくることなどほとんどあり得ない。「かわづくり」の命題は今も昔も「社会を自然とうまく関わり合わせること」である。(→第3回「川:自然と人為の際」)
 「まち」にしても何もないところに一からつくってみてもあまりうまくいかないことを私たちは知っている。実際「かわづくり」「まちづくり」は「かわ」「まち」を守り、見直し、盛り立て、再生する話ばかりである。「つくる」と言うけれども果たして何をつくっているのか? あるいは「かわづくり」「まちづくり」と称して筆者らは何をつくることに関与しているのか? 考え直してみた。総じて(i)プラン、(ii)仕組み、(iii)イメージを含む知的資産などをつくっていると言える。プランは文字通り自治体の総合計画や地区の事業実施計画である。仕組みとは、例えばワークショップやホームページである。知的資産をつくるというのは、認識共有のためのイメージづくりや啓発教材の開発である。
 これらについて第1の共通点はデザインの側面があることである。悪構造問題や悪定義問題への挑戦であり、求めるべき解答には自由度がある。諸自治体の総合計画を見ていると、コンサルタントが同じためか自治体のオリジナリティの訴求力が弱いためか、よく似ていることがある。結果として「まち」が似てしまうのは残念な限りである。第2の共通点は、誰か個人の作品になることはないということである。多様な主体の「協働」を通じてつくり上げられていくものである。
 「かわ」にせよ「まち」にせよ、つくり上げられるプランや仕組み、イメージは人々に好かれるべきものであるし、環境の価値、安全の価値はたえず再認識されるべきものである。しかしながらそうした愛着、環境や安全の価値は案外と見えにくかったり気づかないほどゆっくり変化したりする。だからこそ注意深くとらえていかないといけない。(→第4回「人はなぜ川に魅せられるか」 第5回 「自然=あたりまえと対峙する」)
 上記(i) ~(iii)の示したものは「政策立案」の諸側面でもある。「政策」が指すものは幅広く、固有対象の改善を図る方策だけでなく、広くさまざまな対象に当てはまるような制度のデザインもある。為政者が市民をある方向に仕向けるような啓発施策もあればイメージ戦略の構築もある。それらは一朝一夕につくられるものではなく、さまざまな主体が介在するプロセスを経て形成されていく。そうしたプロセスも大事なのである。
 筆者が名古屋・堀川に関わりだして7年が経った。水工系の研究者らは堀川を観察して「潮汐の変化」「ゴミの移動」などさまざまな知見を明らかにしてきた。それに引き替え、計画系の筆者は何かを提案したり、誰かを応援するばかり。加えて行政が動かなければ実現しないような話も多い。10年ほど関わって何かが実現すればいいと楽観視する一方、口だけで終わるかもしれないという不安も抱き続けてきた。
 そうしたところ今年8月26日、名古屋市堀川総合整備室が事務局となって「堀川まちづくり協議会」が発足した。まさに河川を中心とした実効性あるまちづくりを検討する「プラットフォーム」ができた。これまで重点的に取り組まれてきた水質改善だけでなく沿岸のまちづくり、観光促進もテーマに含む、総合的な政策立案の場である。まだ始まったばかりだが一貫性をもって戦略的に整備事業を展開できる可能性、市役所のお金だけでなく世の中のお金が堀川にうまく使われる仕組みがつくれる可能性が出てきた。俄然意欲が涌いてきた。筆者には工事中のアイデア、やりかけの作業がたくさん残っている。<了>
平城京の堀川と舟運
かわづくり×まちづくりはつづく
謝辞:毎回にわたり編集部 酒井さんのやさしい叱咤激励がなければ連載は続かなかったと思います。感謝の意を表しますとともに、本誌のますますの発展を祈念いたします。