建築の境域から考える
           第2回

建築設計資料集成の可能性

北川啓介
(名古屋工業大学大学院工学研究科准教授)
きたがわ・けいすけ|
1974年3月26日名古屋市内の和菓子屋生まれ。
専門は、建築設計計画、建築意匠、現代建築、都市計画、情報空間論、サブカル論、ナゴヤ論。
1999年ライザー+ウメモト事務所(NY)など。
2001年名古屋工業大学大学院工学研究科博士後期課程修了、博士(工学)。同大学大学院助手、講師、助教授を経て、現職。
その他、UIA2011フォーラムジャパン部会企画委員、名工大ラジオ局長など。
報文:『マンガ喫茶白書 社会問題に先行するひとり一畳の聖域』『もうひとつの建築設計資料集成』(日本建築学会建築雑誌)など。
著書:『ハイパーサーフェスのデザインと技術』(彰国社)など。
受賞:日本建築学会東海賞、名古屋市都市景観賞など。
メール:kitagawa@kitalab.jp
 回転寿司レストランのベルトコンベアーは、ほとんどの日本人の利き目が右であることがきっかけで左回り。怖いお化け屋敷ほど、順路は右回りよりも左回り。アメリカの企業が高効率な家畜の生産を追求しすぎたために、メキシコにて新型インフルエンザが発症。パチンコ産業の総売上高は、税金の無駄遣いを根絶した場合の総額試算と同じ20兆円以上。景気が悪化すればするほど、不思議なことにラブホテルでの回転率も利益も向上。
 建築の分野では、古来より、国内外問わず、どちらかというと建築家の設計した住宅、学校、美術館、劇場、官庁舎といった、ひとつの都市や社会を形成する際に欠かすことのできない施設の事例を、参照すべき対象として位置づけてきた強い傾向があります。ユネスコの世界遺産でも、各国の文化財指定でも、その場所におけるある時代の社会性や世界観や技術力を反映して築かれてきたことで後世に大きな影響や展開を与えた建築物が指定を受けやすいため、都市や社会の形成が私たちの建築の分野っぽさをも同時に形成してきました。
 一方、一般の人々から見た建築の分野のイメージはいかなるものでしょうか。一流の建築家による一流の建築物の写真や図面や文章を収めた作品集を購入するクライアントは意外に少なく、ローコストの住宅を特集した一般雑誌の販売数が常に右肩上がりというのが現実です。では、一般の人は何に興味を持っているのかとベストセラーコーナーに向かうと、数年前には、建築ではなく、残念ながら、土木萌えの関連の写真集が老若男女を問わず一世を風靡し、どこの書店でも常に平積みの状態でした。建築家が、クライアントの要望を咀嚼しながら、昼は現場管理を進めながら、夜は遅くまで修正点を図面に反映させつつ、格好いい作品の数々を作品集として発表しているのに、なぜ、設計者の名前もないアノニマスな建造物で、これまで作品集を発行してきた経緯も計画もさらさらなかった、工学的必然性の塊の土木分野の写真集が、ベストセラーに名前を連ねることができたのでしょうか。都市や社会を形成してきた点では土木と建築は近い歴史を辿っているのですが、土木の写真集が意気揚々と話題にされる中、建築の分野から建築の設計資料への価値観自体が少々肩肘を張ってしまっているのかもと、ひとかたならぬ悔しい想いを感じました。
 時を同じくして、書店のベストセラーコーナーでは、ラブホテル関連の複数の書籍が何十万部も売れたというキャッチフレーズと共に、土木萌えと同様に平積みの状態でした。ホテルですので、建築もやるじゃないか!と思ったのですが、名の通った一流の建築家が記した書籍でもなく、関西の大学の美人女子大生が博士論文で記したラブホテル論や、倒産したビジネスホテルをラブホテルとして蘇らせるカリスマプロデューサーによる経営論でした。1 ~2時間もあればついつい読み切ってしまう明瞭な文章と相まって、表紙の帯で微笑む美人女子大生とラブホテルという内容であったり、ラブホテルで一代を成したカリスマプロデューサーは至って質素なOL風女性であったりという新しい知の欲求を生むギャップが一般の人々に響いたのでしょう。土木萌えから始まった私の悔しい想いは募る一方でした。 
□これまでの建築設計資料集成
 建築の分野での建築の設計資料というと、まずは、長い歴史を持つ日本建築学会編の建築設計資料集成シリーズが挙げられます。日本建築学会が建築設計実務者の要望に即応する図を主体とした資料集として編纂を開始したのが昭和12年。
 特に、戦後の日本の建築界では、日本中の都市と建築の戦災からの復興、加えて、住空間の普及を目的とした建築設計の基準を決めることが最優先されてきました。当時の建築計画学の分野の専門家とその研究室の弟子の大学院生たちは、こぞって国内の良質な建築物の実測を通して、日本人の寸法に適した空間寸法の設定、ビルディングタイプごとの形式の分類などを進め、建築設計資料集にて選定された建築物のメカニズムを図と写真と文章で伝えてきました。
 この歴史的な流れと建築設計資料集成の普及は、なにも日本国内に限った話ではありません。アジアでも欧米でも、近代以降、その国々で一定水準以上の建築物を築くために、主にアーキテクチャー・スタンダードという書籍として広く出版され、実務設計環境の書棚にはたいてい収めてあります。
 しかし、見方を変えると、実務設計に即した資料集であるがため、建築物自体の汎用性が低い回転寿司レストラン、お化け屋敷、高効率の畜産建築、パチンコホール、ラブホテルといったビルディングタイプの掲載は限定的であったと同時に、あくまで施設単体としてのビルディングタイプに沿ったシリーズ構成であるがために、現代以降のその時々にたまたま生じただけかもしれない、人間と建築の独特な緊密関係の事例は取り上げられることはありませんでした。 
出会いカフェの内部空間 ナナカフェ栄店 出会いカフェの男性客と女性客の行動システム ナナカフェ栄店
□もうひとつの建築設計資料集成
 人間と建築の独特な緊密関係、例えば、出会いカフェを事例に考えてみましょう。
 出会いカフェについては、この約10年、新聞紙上で数え切れないほど摘発されたというニュースが流れたため、今では一般的に知られた存在かと思います。出会いカフェとは、あくまで建築用途はマンガ喫茶でしかありません。喫茶が主であり、建築可能な用途地域も商業地域に限らず、大いに緩和されています。名古屋市中心部のテナントビル3階の100平米ほどの一室は、男性客専用のマンガ喫茶の空間を、女性客専用のふたつのマンガ喫茶の空間が挟み込むように並んでいます。男性客専用の空間からのみ、マジックミラー越しに女性客専用の空間を鑑賞することができ、直接女性に声をかけると風営法違反になるので店内をウロウロしているウェイターを介して男性客が女性客に声をかけ、出会い、社交する場なのです。
 出会いカフェの特筆すべき点のひとつは、建築空間の意匠よりも、建築内での人々の行動の仕方という、建築に内在するシステムにのみこだわっている点です。システムを稼働するために、100平米の一室をマジックミラーで3つの空間に細長く分けた設えだけで、一店舗当たり月に数千万円の経済効果を生み出しており、調査した結果では、平米当たりのテナント収益は世界でもトップレベルです。
 少子化と表現しては言い過ぎかと思いますが、出会いに世知辛い現代社会の状況からの需要に大きくこたえており、晩婚化が進む現代社会だからこそ登場すべくして登場したのでしょう。いわば、出会いカフェの根底には、人間と建築の独特な緊密関係のうち、システムしか存在しません。建築界の巨匠、レム・コールハース氏は、従前より、建築物自体の固有のデザインというよりも社会に開かれた建築の新しいシステムを次々と提唱しており、氏の関心のツボをつくことは間違いなく、UIA2011で来日された際にでも、一度、出会いカフェにご案内したいと思っております。
□建築設計資料集成の可能性
 こうして戦後から現代に至る建築設計資料に対する建築の分野と一般の人々の価値観に着目するだけでも、建築の分野での少々硬直化した価値観が逆照射されてくるのではないでしょうか。
 一流の建築家が成し遂げようとしている新しい人間と建築の関係を、もっと身近な建築の価値観から発掘しつつ、一般の人々の価値観へ建築の分野をもっと開いていく時代なのでしょう。
 本稿にて言及した回転寿司レストラン、お化け屋敷、高効率の畜産建築、パチンコホール、ラブホテル、出会いカフェなどは、日本建築学会建築雑誌2009年12月号の第二特集『もうひとつの建築設計資料集成』にて特集しております。ご覧いただき、ぜひ、忌憚ないご意見をお送りください。