かわづくり×まちづくり
           第5回
自然=あたりまえと対峙する

秀島 栄三
(名古屋工業大学大学院工学研究科准教授)
ひでしま・えいぞう|
1992年京都大学助手
1996年博士(工学)
1998年名古屋工業大学講師
2000年JICA 長期専門家を経て現在に至る。
専門は土木計画学。
著書に『土木と景観−風景のためのデザインとマネジメント』(学芸出版社)、『環境計画―政策・制度・マネジメント』(共立出版)など。
国土交通省中部地方整備局入札監視委員会委員、愛知県尾張地域水循環再生協議会座長、名古屋市行政評価委員会委員、㈶名古屋都市センター企画委員などを務める。
あたりまえが恐い
 夏は川に最も馴染みを持つ季節である。前回は「人はなぜ川に魅せられるのか」と書いたが、その反面で恐い思いをさせられることもある。この季節になると川が増水して中州に取り残されるという事故が起きてしまう。現地では曇天でも上流で豪雨が発生し、急激に水位が高まる。その理屈は知っていたにしても川が次第に増量するプロセスは分かりにくいのかもしれない。学生が水災害の論文を書くと、きまって「近年ゲリラ豪雨が…」「昨今の異常気象が…」と書き出すが、水害は昔からあって今も昔もその恐さは変わらないのではないかと思う。通常時に馴染んでいるからこそその変化が恐ろしい。
 名古屋市内では6月に各地域の水害の危険性を示すハザードマップが全戸に配られた(図1)。堤防が決壊するなどして越水するタイプの水害に加え、各地域の下水管などの排水設備が処理能力を超え、地表に水が溜まり出す「内水氾濫」も考慮している。内水氾濫は避難の方向を定めにくく恐い。かつてハザードマップの公表については少なからず抵抗感があった。端的に言えば赤や黄に塗られた地域の地価が下がることが懸念されたからである。しかしそういう情報がないまま浸水する地域に多くの人が住み、水害を被るとすれば、それは地価下落を上回る社会損失となりうる。宅地開発では平常時も危険とされる水路やため池も埋められる。大規模開発では地名も変えられる。やがて水害に脆弱な土地であることが覆い隠される。誰だって災害には遭いたくない。遭わないようにする一方で、来るかもしれない災害にこのようにして目を伏せてしまう。
 中州に取り残される事故に見る人間の心理として「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」といういわゆる「正常化の偏見」が指摘されるが、私たちの社会では長い時間をかけて別の意味での正常化(“あたりまえ”化)も作用しているようである。


図1 あなたの街の洪水・内水ハザードマップ(中村区版・表紙)
出典:名古屋市ホームページ
あたりまえに気づく
 話は変わるが、名古屋市議会では「地域委員会」全市域実施の可否が一つの争点になっている。私事だが市役所の地域委員会研究会という現在進行中のモデル事業を検証する場に参画することとなった。個人的には「39才会社員」が地域委員会委員に選ばれることは果たしてあるか?ということに関心がある。わが国で地元のまちづくりに関与している人の8割以上が60才以上かつ仕事を引退していると推察する。高齢世代が元気なのはとても良いことだが、地域としてはそれで問題がないわけではない。同世代、特定年齢層が施策立案の場を占めることは健全とはいえない。まちづくりの多様な可能性を損ねる。蓄積された地域固有の知識やノウハウが途絶えかねない。
 市内8学区で地域委員会のモデル事業が行われてきたが、本年度の事業予算を決めるのに十分な時間が持てなかった。結果として出された各地区の予算案を見ると「安全・安心なまちづくり」に絡む案が多く出されている。この事実は興味深い。防災や防犯という主題は市民が普通に生活している限りでは意識に上がってこない。しかし地域の問題をみんなで解決しようとなると逆によく出てくる。まちづくり関連のワークショップでも防災はよく話題に上がる。地域の危険箇所を特定するマップづくりなども好まれる。老人や乳児を抱える家庭では介護福祉や育児の方が切実な問題だろう。しかしそれらについて地域で共有できる到達目標などを定めるのは難しいと思われる。
 名古屋市内では防災ボランティア組織*が昨秋やっと16区すべてに揃った。どこの地域でも防災に熱心に取り組んでいる人はいるということである。その一方で「39才会社員」は地域の防災に最も無縁で無知なことだろう。地域の災害は、一部の人々の熱意だけではゼロにすることはできず、ものを言わない「39才会社員」の、地域における立場・役割を変えることができれば何よりと思う。裁判員制度のような社会的保障を伴う拘束力がなければならないかもしれない。かわづくりにせよ、まちづくりにせよ、多くの人の参画、知識の増大、関心の向上が大切だと思う。地域委員会研究会に出席しながらその可能性を探っている次第である。
あたりまえにしないために
 地域の問題を考える機会が与えられれば誰しもが上述のようにして防災に関心を持つのではないかと思う。環境問題も同じようなことであろう。一部の団体だけが熱心であっても自然環境は良くならない。無関心層が知らずのうちに環境を悪化させる勢いの方が強いかもしれない。そして地震や水害はしばしばカタストロフィックに被害をもたらすのに対し、環境悪化は、ここ数十年の日本がそうであったように、じわりじわりと進行していく。やがて諦めのつかない被害がもたらされる。よく言われるように環境保全と防災の問題はつながっている。
 自然が有する、実は恐い「あたりまえ」を、あたりまえにしないようにする政策や制度の設計が必要である。図2は「愛知県河川情報周知戦略」のもとで作成されたものであるが、災害の最小化に向けて既往のハード指向の政策にとどまらず、無関心層に「気づき」を与え、さらに「気づき」を「正しい理解」「正しい判断」へとレベルアップしていきながら諸々の減災方策を実施するという行動指針を示している。コミュニケーションの充足化とも言えるし、学習・啓発の重視とも言える。私たちは日々あまりにも多くのことに関心を持っており、自然というあたりまえの存には関心が向かなくなっていく。2000年の東海豪雨(図3)から丸十年が経った。その教訓も忘れてはならない。しかし忘れるのである。そういうときに背中をひと押しする啓発は有益だろう(図4)。あたりまえが実は恐いということが何らかの形で地域社会に伝承されていくこともある。その恐さの本質について、たとえくどくても理解を促すことの効用は明らかにある。
 政策は社会の問題を解決し、制度はそれを未然に防ぐが、上述のような地域の学習・啓発も今改めて政策・制度の一部ととらえることができるのではないだろうか。この川が好き、この町が好きという感覚、感情だけではかわづくり、まちづくりとして不十分である。面倒くささも避けられない。知識・知恵も大事である。
図2 施策と学習のスパイラルアップ  出典:愛知県ホームページ
図3 東海豪雨時の新川の破堤
写真提供:国土交通省庄内川河川事務所
図4 東海豪雨10年ロゴマーク 出典:東海豪雨10年実行委員会
*災害時に地域外から訪れるボランティアを受け入れ、 諸業務を割り振る役割を担う。