保存情報 第106回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 六鹿(むしか)邸 三輪邦夫/RE建築設計事務所
主屋全景 土間の架構 目隠し塀
■発掘者コメント
 豊田市の中心から知立・刈谷方面へ155号線を車で30分余り、高岡中学校西を右折れすると六鹿邸の案内板が見えてくる。この辺りはまだまだ田園風景が多く残っているところである。昭和40年(1965)に豊田市と合併する前は旧高岡町の中心であった。広い敷地の中にある他の建物も含めて六鹿会館として一般公開されている。資料によれば、かつての家主六鹿清七は現在の岐阜県笠松町に生まれ、明治維新後は材木商を営み財を成したが、「国の本は農業にある」との信念から、当時は原野だった高岡の新馬場の開墾に乗り出す。明治30年代に灌漑用水ができるまではわずかに耕地があるだけで、溜池をつくり水の確保に苦労を重ねた土地であった。現在のような豊かに広がる田園は明治時代以降の六鹿清七をはじめとする先人の努力による。
 敷地の南東角にある門をくぐると目隠し塀によって視界が遮られ、自然に右斜め奥に目線が誘導される。大きな建物、六鹿邸が見えてくる。出入り口は正面南東に位置し、中に入ると広々とした土間、太い柱、太い鴨居、そして太い丸太の架構が迫ってくる。上手には18帖、12帖、15帖と大きな畳敷き、六間取りの部屋が並んでいる。典型的な大型農家である。棟札には「明治四拾年(1907)壱月五日、家主六鹿清七」とあり、昭和53年(1978)には明治期の建築を伝える建築物として豊田市の有形文化財に指定された。
 六鹿邸のような建て方を伝統工法と呼ぶならば、現在伝統工法で建てる建物はほとんどないに等しい。すべて伝統工法が良いとは思わないが、連綿と続いてきた技術は改良を重ねながら引き継いでいくことが大切ではないだろうか。 


所在地:豊田市高岡町長根51
     昭和53年(1978)3月 豊田市有形文化財
参考資料:『豊田市の文化財』
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 輪中の中の集落 高屋敷 水野 威/ミズノ設計室
高屋敷の石垣 土蔵式水屋 玄関前には階段がある
■発掘者コメント
 濃尾平野の南西部、木曽川、長良川、揖斐川の三大川の堤防によって囲まれた囲堤集落、輪中を訪れてみた。現在は治水工事の導入により洪水が減少して輪中堤などは取り壊され、輪中囲いを見ることはできなかったが、海津市高須町辺りにはこの地域特有の町並みの景観を見ることができた。
 およそ400年前からこの低湿地帯は50回以上堤防決壊による洪水が記録されている。こんな劣悪な環境で人々は堤防を築き、土地をかさあげし、農耕に適した土地にするため相当な努力をしたのであろう。住居も低湿で常に洪水の脅威にさらされているため、必然的に集落は高い地域につくられることになる。さらに裕福な人々は、屋敷全体を高く土盛りして石垣で囲んだ「高屋敷」と呼ばれる家をつくることができ、今回撮影した建築物はこの「高屋敷」である。
 積まれている石垣は堅牢で高さも2mは優にあり、かつ反りもあり、上部の瓦屋根、横板張りの黒塀と調和していて美しくデザインされていると感じた。母屋は金属板で外皮されてしまっていたが、隣接している黒く塗られた板張りの建物は、土蔵式水屋ではないかと思われる。この水屋は洪水が起きたときの避難場所となり、水が引くまでの生活拠点になる要素を持つ建物である。
 このような建物は昭和45年頃には海津、平田、南濃辺りに140戸ほどあったようだが、洪水の危機意識が薄れるにつれ放置されたり、取り壊され減少しているのが現実のようだ。高齢者社会に向かいバリアフリーのまちづくりの必要性から見てみると、なかなか生活しづらい環境ではあるが、洪水がなくなったわけではなく防災に対する人々の意識は他の地域よりも高く持つ必要がある。町並みを残したい思いと、両者のバランスをいかにとるかが大変難しい課題であろう。

所在地:岐阜県海津市高須町地内
参考文献:『新郷土海津 かわりゆく輪中と扇状地』(新郷土海津編集委員会)