JIA愛知建築セミナー「明日をつくる建築家のために」
シリーズ6「地域から世界へ」第4回

櫃田伸也氏と松山巖氏を迎えて
( 山田高志/山田高志建築設計事務所 )
セミナーのシリーズ6「地域から世界へ」の第4回はさる3月27日( 土)、「FromArt」という観点から、画家の櫃田伸也氏と小説家・評論家の松山巖氏をお迎えしました。芸術家としてのお2人の視線はとても純粋で、深く鋭いものでした。
「通り過ぎた風景」   櫃田伸也氏
 先生のご自宅は、永田昌民さんの設計で愛知県立芸術大学近くの雑木林の中にあります。講演依頼にご自宅に伺ったとき、高い天井にラワン合板を塗装した白い壁、静かな空気の漂うアトリエを見せていただき、教え子であった奈良美智氏や杉戸洋氏など現代アートの作家たちが皆よく出入りしていたとのお話をしていただきました。いつもとても自然、まったく気負いのない先生は不思議な存在感があります。
 講演は、特徴ある絵の構成的かつ創作的な解説から始まりました。絵を近視眼的にとらえる。先生の作品テーマは何気ない身近なところにいつもあります。
最初は「壁」。ただのコンクリートブロック塀でも、積まれた目地を近視眼的に見抜いていく。すると見えてくるのは「線」。
次は「平行線」。懐かしい記憶の景色にそれはあったのです。土手の中に見る平行線。それは地面と空を区切る平行線となる。その平行線は目的地に向かっていく行為ではなく、決着の付かない画面なのです。
「地面や地べた」とは。マンホールがあり水溜りがあるもの。櫃田氏の研ぎ澄まされた感覚は、ドラマチックではないものの中から、近視眼的に面白さを追求していきます。
「斜線」では平安絵巻の構図は吹抜屋台、繰り返しを遊ぶ面白さの話。
「山」「池」は平面に対して出っ張るもの、引っ込むもの。
「囲み」。夕顔棚納涼図屏風(久隅守景)。簡素な竹で場が囲まれ、くつろぐ親子3人。緩やかな時間が流れ、優しくまとまりをつくっている。
「広場」とは。モチーフを集め組み立てる。好き勝手に集めて繋ぎ合わせていく。体で覚えた風景の感覚がそのときのスケールとなっていく。いつも自分自身になっていく。幅広い立ち位置において存在していると。
 「彼の作品は八等分してみても十等分してみても絵になっている」と松山氏は話します。一緒に旅行したとき、櫃田氏は道端に落ちている雑草や空き缶をずーっと見ていた。まさに近視眼的な観察力。だからいつも同行したみんなより遅れてしまう。「電車にピョンと飛び乗ったのを見て、僕は彼を忍者と呼んでいる」。
櫃田伸也氏 松山巖氏 会場の様子
「ブリコラージュ」   松山 巖氏
 東京芸術大学建築学科卒業後、建築設計事務所を設立。10年ほど住宅設計にかかわりながらも事務所を閉じ、執筆に専念。多くの文学賞を受賞する小説家、評論家です。櫃田氏との交流は古いが、同席での講演は初めてとのこと。松山氏は著書『住み家殺人事件・建築論ノート』で、櫃田氏の「空き地のプラン」(2003年/油彩)を装画とされています。
 最初に、フランスの文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースの「ブリコラージュ」の概念を紹介。理論や設計図に基づいてものをつくる「エンジニアリング」とは対照的なもので、その場で手に入るものを寄せ集め、試行錯誤しながら最終的に新しいものをつくる「ブリコラージュ」。その意味において、住まいはまさに「ブリコラージュ」で、それらの集合体が都市の形態をつくっていくものとなるのでは・・・と話されました。
 また、写真家池田信氏の写真集『1960年代の東京』から、東京オリンピック(1964年)により変貌していく東京の川と橋の同じ場所の写真を、当時と今で比較。「通り過ぎた風景」となる意味なのでしょうか、そこから見える何かを探り、語っていただきました。
 江戸は古くから水路をつくりながら発達してきた都市。橋は荷揚げ場として、トイレや交番がつくられた歴史があります。近代都市の発展と共に川が消え、その後には、役目を終えたトイレや交番跡がただ残っていたりします。
 ウォーターフロントに立つ、現代の無謀な高層住居建築の開発計画。低成長・少子化など将来予測される問題を無視した強引な方法論の痛いツケは、必ず後の世代で清算しなければいけなくなる。もう今までのように進歩することはないのだから。「改めて、建築・都市の論理は信用しないことにしました」と参加者の最後の質問にこたえ、マイクは静かに置かれました。
 複雑な現実を見つめることもできずに、自分自身の無力さに気づこうともせず、建築することの意味には「そんなの関係ない」といわんばかりに忙しがる。答えなど出せやしませんが、物事をしっかりと見ながら歩く、そんな生き方を感じました。ありがとうございました。
参加者の声
●日頃まず聞くことのできない方々のお話で、今後の自分にとって何か生かせることがないか興味を持って受講させていただきました。
 櫃田先生は日々の風景の断片を描いておられ、例えば「コンクリートの継ぎ目に草が一直線に生えていて面白い」など日常のあらゆるところに形の面白さがあり、偶然がつくる表情があるとお話されました。一見どこにでもあるような風景であっても櫃田先生の目から見ると、そこは発見に満ちたものになるのだなと、生活全般、どこにでも美術はあるということだと思いました。また、人は本当にいろいろな視点、観点を持っているのだなと、そして何よりそこに櫃田先生の人間としての深さを感じ取れた気がしました。
 今回のように建築の枠組みを超えた分野の方のお話を伺うことができたのは、私にとって大変有意義で貴重な時間でした。これからの自分の仕事や人生においてとてもいいヒントになったのではないかと思います。ありがとうございました。    ( 内山大二郎/菊原)
●今回のセミナーは両講師共に建築家ではないということで、いつもとは違った話が聞けるのではないかと楽しみにしていました。櫃田氏はその作風、語り口共に大胆かつ自由で、「自分の中にある原風景のようなもの描いているだけなんです」とにこやかに笑って話をされていました。自分の中にあるものを自由に表現して、それが人の心を動かすということは、それが一番難しいのではないかと思いました。スライドで紹介された作品を見て、やはり実物を見てみたいなと思っていたところ、4月の中頃から名古屋ボストン美術館で展覧会があるとのこと、早速見に行ってきました。建築と同じく、絵画や美術品も実物と写真では全く別物で、その迫力、線の自由かつ大胆さに圧倒されました。
 両講師が古くからのお知り合いということもあって2人の話の掛け合いもあり、大変楽しく聞くことができました。建築に関係の深い都市の変遷についての話を聞き、建築物は自己完結するものではなく、周りからも見られるし、周囲に与える影響も大きいのだということを再認識しました。
 今回のように建築家以外の話でも、ものをつくるというところではその思想や姿勢が大変参考になりました。これからも建築にとらわれず、いろいろなものづくりの話を積極的に聞いてみたいと思いました。( 前田真佑/蒼生舎)
●両先生のお話で、建築にかかわる者として大切にすべき思いを再認識することができました。それは「部分と全体のつながり」と「風景としての建築をつくること」です。
 何でもない日常の風景の断片をつなぎ合わせて構成された櫃田先生の作品。一見とても静かな風景に見えても、「部分」をじっと見ていると、子供時代のさまざまな音、風、土の感触など、頭の中には生きた記憶が浮かび、「全体」が生き生きとした風景に見えてきます。部分と全体が意味のあるつながりを持っているからこそ、そのように感じられるのだと思います。建築の姿や空間の質、また機能の中にも、記憶を呼び起こす風景としての役割が必要だと思います。
 一方、松山先生からは、説明のつかない都市の姿を解説していただきました。社会情勢や経済の流れの中で、漠然と「全体」がつくられ、一時の目的のためにつくり続けられた「部分」の集合となっている都市の姿には、記憶につながる風景としての役割がないように感じます。
 「明日をつくる」ことは新たな何かを生み出すことでなく、人の記憶にある風景をつなぐための何かをつくることではないかと思います。全体をつくるための部分を考え、意味のある部分をつなぎ合わせて全体を構成しなければ、説明のつく建築はつくれないのではないか。建築を機能や型の集合体としてとらえるのではなく、人の記憶に語りかける、ひとつの風景ととらえてつくることも大切だと感じました。(山田透/道家秀男建築設計事務所)