7代先の子孫と生きる6

古いこよみで暮らす

広田 奈津子
ひろた・なつこ|
1979年愛知県生まれ。
アメリカ大陸やアジアなど、自然と共生する民族に知恵を学ぶ。
2002年音楽交流を行う「環音」立上げ。
2006年「ブログミーツカンパニー」立上げ。消費者からエコ提案を募り、賛同署名とともに企業へ届け、実現すれば応援する活動として展開。
2007年COP10なごや生物多様性アドバイザー就任。個人の参加を促す「生物多様性じぶん条約」プロジェクト立上げ。
2009年旧暦にそって行事を行う「こよみあそび」立上げ。
東ティモールの音楽ドキュメンタリー映画「カンタ!ティモール」監督。
かすみ初めてたなびく
 日本の旧暦(太陰暦)の手帳を使うようになって3年になります。これを書いているのは2月末、旧正月が明けて、二十四節気では「かすみ初めてたなびく」の頃です。いよいよ春も本番となると「もも初めて笑う」、この号が出る頃には「つばめ来たる」。何とも可愛い季節の呼び方ではないですか? それでいて、種をまく時期や、虫干し、衣更えなど、風土に合った行事をさりげなく告げてくれます。
 今年の3月8日は「すごもり虫 戸を開く」、啓蟄でした。虫たちが土の中で戸を開き始めた、その微かな気配を感じ、あらゆるものが芽吹く時期が来たことを知る。自然の呼吸を感じ取り、それに歩調を合わせて体や物事を整えなさい、と古い暦は教えてくれるようです。
 体の声に耳を澄ませば、春の訪れとともに節々(ふしぶし)がゆるみ始め、冬の間に蓄えたエネルギーや毒素を放出する時期。そんな体を整えてくれるのが旧正月7日にいただく「七草粥」です。ナズナやハコベなど、今では「雑草」と目の敵にされる野草が、昔は体を整える薬草として重宝されたのですね。そんなことを知ってからは、一か八か、庭に生える草を食べてみたり、お風呂に入れたりしています。近くで見るとなんとも可愛い野花。食べるとしびれるほど苦くて後悔するものも多いのですが、そんな苦さには、長い冬を越した芯の強さを感じて勝手に共感しています。
月と遊ぶ
 古いこよみの遊び方は粋です。例えばお月見。旧暦の1日(ついたち)は「月たち」、つまり新月です。新月から数えて15日目が満月。16日目の月は最も美しいとも言われる十六夜(いざよい)。そして17日目から立待月(たちまちづき)、居待月(いまちづき)、寝待月(ねまちづき)、更待月(ふけまちづき)…と続きます。
 太陽が沈むのを見届けて、立って待てるほど早くのぼるからその名がついた立待月。その後だんだん夜が更けないとのぼらない月になっていきます。それを待つのもお月見の楽しみですね。地域によっては26夜まで待つところもあるそうで、そうなると深夜2時頃です。地域で集まって法要や宴会をしながら月を待つ行事が残っています。昔の記録を読むと、なんだか艶っぽい、大人たちの夜遊びでもあったようです。「更待月がのぼる頃、いつもの場所で会いましょう」なんて甘い約束も、濃い闇に月が映える時代ならでは、ですね。
1年に1度だけの約束
 自然界には美しい掟があります。とり過ぎないことです。分をわきまえれば、巡る季節は永くその恵みをわけてくれます。
 月見も花見も、旧暦の遊びは季節が巡ったからこそ楽しめる自然の風景を、そのときにだけ、いただくもの。人間のわがままでいつでも取り出せないからこそ風情があり、愛しく感じるものです。24時間灯りをともし、地球の裏側から取り寄せては廃棄して、好き勝手にやってきた私たち。自然の掟を忘れてしまっているかのようです。
 例えばもし、サッカーの試合で、ルールがなかったらどうでしょう。ボールを入れれば何でもありのゲームです。キックオフと同時にマシンガンを持ち出し、相手の選手を片っ端から倒していく。カラになったゴールに繰り返しボールを入れれば圧勝です。しかしそこに技術は育ちません。チームワーク、ドリブルやパスの技術、そして、他者と出会い高めあうという本来の目的も失ってしまいます。
 現代の暮らしに運ばれる商品の元を辿ると、その多くは、ルールのないゲームで勝ち取られたものではないでしょうか。ものを言わぬ生き物からは何を奪っても咎められない。武力の差、経済力の差をもって人の口をもふさぎ、より多く、より早くゴールした人が勝つゲーム。しかし、それでは友人をなくし、心をなくし、技と文化をなくすのは当然です。
桜の花の塩漬けおむすび カナヘビもお目覚め
輪をプロデュース
 ルールのあるサッカーが技術を向上させるように、自然界の制限は様々な文化を高めて来ました。例えば一時期にしかとれない旬の野菜を、1年を通して食べられるように、天日に干す、発酵させるといった保存食の文化もそうです。
 それと対極にあるのが、季節を問わず求めることです。燃料を燃やして作物に適した環境を作り、それでも商売が成り立って来たのは、安い石油があってからこそ。地中深く掘り返し、遠路はるばる運ばれる石油。それに対し、裏山で焼いた炭。取り逃げする方法と、自然の恵みを循環させる方法。未来の世代への迷惑金も含めれば、前者の対価はずっと高いはずなのに、今の価格は、物言わぬ者への負担を無視したからこそ付いたものと言えないでしょうか。等価であるべき交換からこれほど離れれば、どこかにひずみが出るのは当然です。
 そのからくりはまるで、ずるいプレゼント交換のようです。音楽に合わせ、輪になってプレゼントを隣の人に渡し、ぐるぐる回って誰もが一つ受け取れるはずのプレゼント交換。それを回さずにため込んで、無理にでもさらなるプレゼントを要求する。そうして1カ所にプレゼントが集まり、腐り始めているのが現状ではないでしょうか。
 それはそれとして、大切なことは、自分がどの輪に参加しているのか、今一度確認することだと思います。今日、何を買ったか。どこから仕入れ、どこにお金を落とし、どこから報酬を受け取ったか。それはその輪に属すことです。その輪が、自然の理にかなった持続可能なものかどうか。直接自分の手を下していなくても、その輪がもし誰かを傷つけ続けるいびつなものだったら、ある日突然、何の前触れもなく止まっても不思議ではないのです。もともと成り立っていなかった輪なのですから。
 自然の理にかなった仕事の輪が回らず、伝統的な職人が絶滅危惧種に陥っている、とよく耳にします。杣(そま)さん、大工さん、人の手を入れながら永く生き続ける建物、豊富に使われる竹や藁。山里が健康で、何百年と変わらぬ恵みをくれるようにとの智恵が詰まった輪です。
 この輪には、物言わぬ生き物が参加しています。森を育む微生物に始まり、木々、落ち葉、森を歩く動物たち、森が育む河川。人間は木々を切って光を入れ、次に育つ木に栄養を返す。いただいたものに手を加えて、使用するすべてをやがて土に還し、他者の栄養にする。とり過ぎず、返していれば、自然界はちゃんと恵みを分けてくれる。当たり前なことだと言われるかもしれませんが、そうして受け継がれてきた風景に生きる人に出会うと、深く感動し、その輪に参加することが大切だとつくづく感じます。
みんながいること
 悠久に続く命である輪に参加しているということ。それを喜んだからこそ、「かすみ初めてたなびく」というような美しい暦の表現が生まれたのではないでしょうか。
 人間の智恵の及ばない大きな輪に、小さな一員として参加しているという目線です。沼には河童、森には山やまわら童、奇妙な虫や、得体の知れないもの、八百万(やほよろづ)の者たちが入って一つの輪が回っているに違いない。どなた様のおかげか、今年も輪が回り、恵みがあり、梅が咲いた、ありがたい、と手を合わせるような風景です。そのような風景では、全く身体機能が違う人も、知能が違う人も、通りを一緒に歩いていて自然です。「弱者支援」だとか「自立」だとか、そんな発想よりも先に、いろいろな命が生きていて当然で、存在する意味などわからないけれど、いろんなみんながいなければ寂しい。寂し過ぎて死んでしまう。人間は本来、そんな非効率な生きものではないでしょうか。
 人や自然を数値で測り、子どもを同じ年齢と知能に揃え、無駄とされるものを排除して生産性を優先する社会は、すでに多くの人を自死に追いやっています。国際競争力や経済的価値は生まなくても、いつか私たちを救うもの、それは目に見えない絆だと思えてなりません。
 今年の10月に開催されるCOP10生物多様性会議は、まさにこうした目に見えないものの価値観が見直されるべき会議です。今まで自然から奪い利用してきた世界が、その態度そのものを見直そうと動き始めています。
 日本はお金で世界中の自然を奪っている世界最大級の国ですが、ほんの少し皮をめくれば、生きものを敬い暮らした文化が顔を出します。その美意識を再確認し、まず自分から始めることが大切ではないかと思う今日この頃です。
 今回で「7代先の子孫と生きる」は最終回です。このような貴重な場をいただいたことに心から感謝します。拙い文章を読んでくださり、また、励ましの言葉をいただいて本当にありがとうございました。 (了)