保存情報 第100回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 大樹寺 多宝塔 渡邉 勇/㈱ユウコウ建築設計事務所
多宝塔 鐘楼 三門 大樹寺 配置図
■発掘者のコメント
 岡崎の寺を語る上ではずすことができない建物が、この大樹寺である。ダイジュジともダイジュウジとも呼ぶ。松平氏・徳川将軍の菩提寺である。三門と鐘楼、本堂と多宝塔ほか。特に三門と多宝塔がすばらしい。大樹寺は安祥城主松平親忠が勢誉愚底(せいよぐてい)上人を開山として、文明7(1475)年に創建した浄土宗の寺である。以後、松平氏の盛衰と運命を共にすることとなるが、今川氏親の家臣伊勢宗瑞(後の北条早雲)の来襲にあって、大樹寺も大破している。慶長8(1603)年に家康が征夷大将軍に任ぜられ、大樹寺は将軍家康の菩提所として一層寺格を高め、慶長11(1606)年には再度の勅願所綸旨および紫衣許可の綸旨を受けた。以後、大樹寺の造営修理は、近世を通じて幕府の手で行われることとなった。しかし、安政2(1855)年本堂の供所から出火して、三門・南門・裏門・鐘楼・多宝塔などを除くすべての堂舎が焼失したという。直ちに再建工事が始められ、若干規模を縮小して、安政4(1857)年に竣工した。
 焼失しなかった多宝塔は大樹寺の中で最も古い建物で天文4(1535)年建立(室町時代)。国指定重要文化財に指定されている。多宝塔は仏塔の一形式で、下層は方形、上層は円形の格調高い二重塔のことである。下層は方三間、総円柱、斗組二手先尾垂木付として、また上層は白漆喰塗りの亀腹上に円形の塔身を立て、四手先で軒を支える。屋根は檜皮葺、鉄製相輪を上げ、軒隅には風鐸が吊るされている。塔内部には円柱の来迎柱を二本立て、禅宗様の須弥檀をおき、その上には春日厨子をおいて、本尊を安置する。すべて丁重入念な取扱いであると共に、この時期のものとしては和様色の濃い建物である。
 鐘楼は寛永18(1641)年に三代将軍家光が建立した。楼上の大鐘は九代将軍家重改鋳の名鐘である。大樹寺には家康の墓(昭和44年建立)「家康公木像」「大方丈障壁画」など貴重な文化財が多い。(参考文献:岡崎市史)

建造物:大樹寺多宝塔(付棟札) 1棟
所在地:岡崎市鴨田町広元5-1
国指定重要文化財:明治37年2月18日指定
その他重要文化財多数あり
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 名古屋大学 豊田講堂 谷口 元/名古屋大学
 
正面ファサード 2008年入学式
■発掘者のコメント
 草創期の名古屋大学には講堂も図書館もなく、第3代勝沼清蔵学長らが各方面に建設資金支援の要請に奔走していたところ、当時豊田自動車の石田退三社長が快諾し、寄附された施設である。若き槇文彦氏が設計を担当されたことはご存じの方々も多いと思われる。
 荒造成されたキャンパスには砂塵が舞い、その先に名古屋の都心部が遠望できたが、門も塀もない殺風景な高台であった。ただ敷地の東奥には雑木林が広がっており、都市の中の大学の「門」、都市と自然を繋ぐ「門」としてこの建物を構想されたということを、槇氏のスピーチで初めてお聞きした。
 さて実は改修に着手する何年も前から、地下鉄名古屋大学駅とを繋ぎ、古川記念館とも連結して、壮大な芸術文化の殿堂として再開発しようという構想を検討した経緯がある。意見を広く内外に求めたが、音響や照明、空調、座席など機能性の向上のほかは、外観の保存を望む声がかなり多かった。豊田章一郎名誉会長は当初、「コンクリート打ち放しはやめて、メンテナンスフリーの仕上げにしたい」との意向を表明されていたが、これらのアンケート結果とDOCOMOMO100選に指定されていることを知るに及び、修復保存に同意されたことが印象的であった。外観を保存するために壁を30㎜ほど削り60m㎜ほどの打ち増しという難工事であったが、当初からの荒々しさが減じられたのは残念である。東山キャンパス独特の緑濃い景観の中心として人々の記憶に残りつづけ、大学がある限り存続する建築となることを願っている。
 なお今年築50年を迎え、槇氏と豊田名誉会長の存命中に文化財登録を果たすことを大学として決定している。
 所在地:名古屋市不老町
 構 造:RC 造 地下1階 地上3階
 昭和35年(1960)竣工 
    槙文彦・竹中工務店設計施工
 平成20年(2008) 改修工事竣工
 昭和37年(1962) 日本建築学会賞受賞
 平成5年(1993) 名古屋市都市景観重要建築物指定
 平成15年(2003) DOCOMOMOJapan近代建築100に選定