保存情報第99回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 鉈薬師(医王堂) 中澤賢一/堀内建築研究所
薬師堂 紅葉坂より薬師堂を見る 建設中の高架道路。右側森の奥に鉈薬師 東側道路。「高架反対」の文字が見える
■発掘者のコメント
 鉈薬師は、覚王山日泰寺の北西に木々の生い茂った細くゆるやかな下り坂の途中にあります。
 寛文9年(1669)、明国の帰化人で藩祖徳川義直の御用医師を務めた張振甫により創建されました。豊かな緑に囲まれる赤い壁の薬師堂は当時の上野村陽光院(現在の永弘院)から移築されたものです。堂内には本尊の薬師坐像と、円空が名古屋城築城の余材を鉈一本で彫ったという日光・月光菩薩、守護神の十二神将の像が並んでおり、鉈薬師と呼ばれる由縁がここにあります。また振甫が明国の王族であり、医師としてこの地で暮らしたことにちなみ医王堂とも呼ばれます。これらの円空仏は毎月21日の10時から14時に開扉され、お参りすることができます。
 この辺りはもみじが群生しており、初夏は新緑、秋は紅葉が一帯の景色を美しく彩ります。鉈薬師は東側と南側が接道していますが、特に南側の坂は「もみじ坂」と呼ばれ、紅葉のトンネルの先に薬師堂がはすむいて佇んでいる景色はまた何とも風情があります。
 ところがこの坂のふもとでしばらく凍結していた高架道路の建設が再開しました。この道路開通により周辺環境が良くも悪くも大きく変化することは間違いありません。鉈薬師かなる影響が及ぼされるのか今後も見守り続けたいと思います。
 敷地東側道路もゆるやかな勾配と豊かな緑に包まれた心地よい小路なのですが、道路建設に反対する住民の訴えが今も強く表現されています。

所在地:名古屋市千種区田代町字四観音道西
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 四間道(アートをはぐくむ建築空間) 谷村茂/アール・アンド・エス設計工房
五条橋たもとに「どて焼き」の 四間道の町屋 建築展’92での提案
 1992年、JIA発足6年目の福田一豊愛知部会長(鋤納忠治支部長)のとき、新装成った愛知芸術文化センターにおいて「パブリックアートへの提言」と題して建築展’92を開催しました。広瀬一良実行委員長の下、17人の委員が幾つかの部門に分かれて業務を分担しました。私は若手(当時)として、四間道界隈と堀川再生の模型を担当し、好きに作ってよいとの委員長の言葉のまま、アート空間を創出してみました。
 四間道は、元禄13年(1700)の大火の後、防火や町人町の区画を目的に道幅を4間に広げたのがその由来とされています。堀川は、慶長15年(1610)、名古屋城築城の折、福島正則の総指揮により開削され、四間道はこの堀川の西岸に位置します。四間道の商人は、米や味噌といったかさばる商品を扱っており、運搬には堀川の水運を利用していたようです。そのため、五条橋や中橋のたもとには、かつての荷揚げ場の石畳を見ることができます(名古屋市教育委員会資料)。
 模型ではこの堀川と四間道のつながりを昔のようにより密接にできないかと考えて親水空間を造って名古屋にもこのような場ができるのだとの思いを描いていました。
 今回、久しぶりに四間道を歩きながら周りを見渡すと、当時よりは周囲の高層ビルが増え、建て替えられた民家も点在していました。都市空間の中にぽかっとタイムスリップしたような町並みには幾つかの変化はあるものの当時の情景を思い浮かべることができましたし、五条橋たもとの「どて焼き」の店が残っているのには驚きました。


所在地:名古屋市西区那古野町1