7代先の子孫と生きる4

社会が描くグラデーション

広田 奈津子
ひろた・なつこ|
1979年愛知県
生まれ。アメリカ大陸やアジアなど、自然と共生する民族に知恵を学び、音楽交流や映画制作を行う。海外の自然破壊の多くに日本の経済活動が関わっていることを知り、2006年ブログミーツカンパニーを立上げ。企業向けのエコ提案を募り、賛同署名とともに企業へ届け、実現すれば買い支える活動として展開。茨城県の納豆会社が石油系パッケージを間伐材に変えるなど提案が実現された。COP10なごや生物多様性アドバイザー。2009年旧暦にそって行事を行う「こよみあそび」プロジェクトをスタート。ドキュメンタリー映画「CANTA! TIMOR」を監督、2010年公開予定。
雌の水牛とマンゴーの葉
 大きな動物を殺してお肉をいただくということを初めて体験したのは東ティモールでのことでした。知人のフラマさん宅でのことです。
 東ティモールは米やイモ類を主食にしたほぼ菜食の地域が多く、お肉を食べるのは結婚式やお葬式、お祭りなど特別な日です。
 ある日フラマさんは、旧知の農村から牛を数頭連れ帰り、念入りに槍を研ぎ始めました。経緯を尋ねると、彼は視線を槍に注いだまま、「国連職員らの大きなパーティがあるらしい。その料理に必要な牛肉を用意するよう頼まれた」と話してくれました。
 連れて来られた牛は、食べたものを消化しきるために数日間何も与えられずに過ごしていました。中に一頭、普段は田畑で活躍する雌の水牛がいました。ツノは顔の両サイドで丸く巻いていて全く攻撃に役立ちそうになく、穏やかな目をした大人しい牛でした。
 ある夜、月がきれいなのでふと外へ出てみると、その水牛が空に向かってできうる限り首を伸ばし、マンゴーの木の葉を食べようとしていました。彼女の短い首では届きようもありません。私はつい、枝を引き寄せてしまいました。彼女は葉っぱを数枚食べると、ポロリと涙をこぼしました。牛が涙を流すのは珍しくないことで、ただ目が乾いたためかもしれないのですが、私の脳裏にはその涙が忘れられずに残っています。牛は賢いので、すべて分かっているようにも思いました。翌日はついに牛を殺す日でした。
殺すこと 食べること
 お祈りを済ませると、男6 〜7人で牛を押さえつけ、フラマさんは鋭く研がれた槍を構えました。槍は心臓を外すことなく突き刺し、牛は土ぼこりをあげて倒れました。そこへすかさず男たちが駆け寄り、頭を強く叩きます。牛が苦しむ声は悪霊を呼ぶとも言われていて、苦しみが長くないよう気絶させるのです。そして牛の瞳孔を見て死を確認すると仰向けにし、ナタを腹にスーッと滑らすと、ほとんど血を流すことなく、皮だけをはいでいきます。私も皮を引っ張って手伝いながら、初めて見るそれらすべてを目に焼き付けていました。
 私の目には牛の体内は妙に美しく、臓器は白みがかった青とも赤ともつかない不思議な色の膜で覆われていました。すべてが完璧な配置で収まっていて、どこに何があるか知り尽くしている男たちは見事な手際のよさでそれぞれを分けていきました。捨てる場所はひとつもありませんでした。
 「残酷な光景を目にするのかもしれない」と覚悟していた私は、一連の手際よさと美しさに呆然としていました。腸の中を洗う段になって、その匂いから、「あぁ今は牛を解体しているんだった」と思い出しました。
 国連のパーティには赤い肉の部分を納品するので、私たちは内臓などのおこぼれを連日連夜食べることになりました。内蔵はとても美味しい料理になります。私はできたてのスープをいただきながら、ある驚きの発見をしました。「美味しい香り」に分類される肉料理の香ばしいくさみと、腸を洗うときにさんざん嗅いだ牛の排泄物の匂いが、グラデーションで繋がっているのです。それまで、食と排泄は真逆の、関わりないことのように思っていました。それが背中合わせで近いものという、思えば当然のことに初めて気がついたのでした。
 そうして思い返すと、殺すこともそうでした。男たちがあの雌の水牛を殺したとき、残酷さの一方で、牛と男たちがまるで愛し合っているかのように私の目には映ったのです。殺すという行為は、全力で向かい合い、限りなく相手の近くへ行くという行為でした。まったく逆と思っていたことが、こんなふうに繋がっていたとは。と驚きながら、あの涙を流した水牛のスープを大切にいただきました。そして、これまで私はいったいどれだけの動物を食べたのか、それぞれに必ずあの死の瞬間があったというのに、一度たりともそれに立ち会うことなく済んできたという事実に驚きました。
 牛を殺すのは、肉体的にも精神的にも、村をあげての大仕事です。牛に蹴られるようなことがあれば命を失いかねません。解体した後も、足一本持ちあげるのさえ数人がかり。女たちは儀式の準備から始まり、もてなし料理を作り続けます。異常なテンションで寄ってたかる犬やハエの中、肉を切り分け、牛皮を干してなめし、角や骨を綺麗に洗って…次から次へと力仕事が続きます。すると「もう当分、お肉はいいや」と感じるのです。ほぼ菜食の日常に、年数回の頻度でやってくる、「非日常」の肉食。その頻度は私たちの健康にもちょうど良いのかもしれません。
生と死の連なり
 日本に戻り、数年して、祖母にガンが見つかりました。「手がつけられない。2か月もつか」と姉の涙声を電話で聞いたとき、旅先にいた私はヘタヘタと座り込んでしまいました。母方の祖母で、ずっと同居でした。仕事を持つ母に代わって、いつも面倒を見てくれた祖母でした。これほど身近な人の死に直面するのは初めてのことでした。親族の話し合いの結果、告知をされないまま入院した祖母は、それでもすぐに病態に感づいていました。本人の希望で退院し、自宅での看護が始まりました。本当に2か月でその時は来てしまい、祖母は危篤状態で病院に運ばれました。最後の夜、兄とふたり病室に泊まり、兄は祖母の手を握って、私は祖母に添い寝をして、小さく痩せた体を撫でていました。弱い息をつく合間に、苦しんでもがく時間が波のように来るという状態が夜明けまで続きました。意識はないようでした。あまりに苦しそうなので兄と目を見合し「モルヒネを頼もうか」と声にすると、驚いたことに祖母はキッパリと首を横にふりました。まるで、「眠ってはいけない。この先に行く場所がある」と言ってくれたようでした。
 そのとき初めて、苦しみの合間に息をつくその波が、陣痛の波とそっくりだと気づきました。赤ん坊が膣のトンネルを抜けるように、祖母にもトンネルの先に光が見えているかのようで、私は生と死が一連なりにあることを感じました。それは私にとって、祖母の死を理解するのに欠かせない経験でした。
 いったい今、どれほどの人が家族の自然な死に立ち会えるのだろう、と考えてしまいます。病院からは「器具も付けず家で亡くなれば警察の検証が必要かもしれない。最期は病院で」と言われていました。死ぬというごく自然なことが、警察や病院の管理下でしか行えない――それはきっとかけがえのない時間なのに、現代の日本では、生まれることも死ぬことも、殺すことも臭いものも、日常からあまりに隔離されているのではないかと思うのです。
 アジアの田舎の子どもらは、死や出産のなまなましい瞬間を何度も見ながら大人になります。食べるための鶏を子どもらが絞めることもしょっちゅうです。今まで生きていたものが手の中で動かなくなることや、母親が尋常でない叫びをあげて子どもを産むこと。相手の痛みや生に共感する能力が、そうした経験から得られるように思うのです。
 そうしたものを遠ざけた現代でも、子どもたちは命への関心を本能的に持っているのではないでしょうか。ときに子どもが犯す重大な罪は、大人が彼らから、死に触れる健全な機会を奪った結果なのではないか、とさえ思ってしまうのです。
双子が産まれた。村の老女らに助けられてお産をする ただ地域にいる男性たち。子どもらの輪にも顔を出す
新たなグラデーション
 様々なことを合理的に分類すると、グレーゾーンが排除されます。死や生に向かう過程だけでなく、誰のものでもない原っぱや、隣人が上がりこむ縁側や土間、地域に養われる野良犬、時間割されない子どもの時間、道にただ座って子どもを冷やかすおじさん。そうした、はっきり分類できない曖昧なものが姿を消しました。
 雑菌を排除し、臭いものはレバーひとつで水に流し、「きれいなもの」だけ切り抜かれた中で暮らす。野菜に虫や土はついておらず、魚は海でなくスーパーで、木は山でなくホームセンターで…あらゆるものをルーツから切り離し、専門家の手に委ね「自分でやらせない」ことで新たな商品はどんどん売れました。しかし、その副作用は様々なところに現れているように感じます。
 そんな中、断絶されたものを繋いでグラデーションを描く動きが、世界中で活発になっているようです。車や家電のシェアリング、ビジネスと社会活動の中間にある社会起業、ホリスティック医療や自然分娩…。様々な現場で新たなグラデーションが生まれています。そこにはきっと、人間味溢れた風景が描かれるのではないでしょうか。