保存情報第98回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 竹渡山(ちくとざん) 本亮院(ほんりょういん)山門 神谷勇雄/設計室ユウアンドアベトウ
山門全景 木鼻(禅宗様式) 斗栱(ときょう)
■発掘者コメント
 日進の米野木の交差点から北に行き、細い路地を登っていくと山門が現れる。近くには神社もあり、昔からの集落の雰囲気を漂わせている。
 明治8年まで渡辺家の菩提寺であったが、廃藩置県により渡辺家からの供養料も途絶え、管理運営が難しくなり、日進市藤島町にある龍谷寺に恩金を上納し、米野木字一帯を譲り受けた歴史がある。渡辺家の先祖は白川天皇より出て、代々皇室に仕え軍の指導に当たった。有名なのは大江山の酒天童子の乱を平定した功績により渡辺姓を賜ったとのことである。また奥方である貞之方の先祖は徳川家康であり、尾張徳川家の八代宗勝の孫に当たる。山号の竹渡は奥方の実家の姓「竹越家」の竹と「渡辺家」の渡に由来する。寺号は奥方の戒名「本亮院殿釈尼僧貞大姉」の院号をそのまま寺号としている。
 本堂は後に、建具などを入れ替え屋根も葺き替えてある。庫裏も、補修し(記録が残っていない)アルミサッシに替えてある。山門は多少の補修などはあるが当時のままであるらしい。ただし板塀は最近建て直した。
 今日まで、200年以上も当時のままで残っているのは、米野木村の人々が領主の菩提寺として、また明治以降は檀家として、寺を愛し守り続けたおかげである。我々もこのような気持ちを持って保存に努めたい。

所在地 愛知県日進市米野木町宮前56
創 建 寛政3年(1791年)
開 基 渡辺半蔵家( 三河寺部領1万4千石)綱保氏(尾張国五千石の領主で三大家老の一人)の奥方貞之方

データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 牛頭山 長福寺(真言宗智山派) 保浦文夫/ヤスウラ設計
仁王門 仁王像 御本尊様
■発掘者のコメント
 1610年、徳川家康は都を清州城から名古屋城に移した。「清須越し400年」「名古屋開府400年」などの記念行事が、地域住民と行政にて、歴史・文化的資源を生かした個性的な地域文化の確立と活性化のため進められている。
 稲沢市は、(旧)東海道と中山道を結ぶ美濃街道(美濃路)の宿場町(稲葉宿)から発展。文化的資源の豊かな地域の再考に、地元長福寺、鈴木住職の視点による寄稿を以下に紹介する。
 450年の歴史を持つ客殿は、すべて腰掛け、バリアフリーに設計改修され「大日如来」の本尊様に参拝できる。 (保浦文夫/ヤスウラ設計)
 尾張平野の西に3,000坪の森をなし、静かに歴史を伝えています。長福寺はかつての「屯倉御県(みやけみあがた)」の遺跡でもあり、津島天王様の元宮でもあります。
 本尊千手観音像は平安時代の作、不動明王・毘沙門天は鎌倉時代の作、名古屋天王坊の宝物も多数所蔵しています。信長の爺や「平手政秀」一族の子孫が寺中心に住居を構え菩提寺としています。
 仁王門は間口6.7m、奥行3.95m、入母屋造、平屋建、瓦葺の建物で、当初は楼門造りとして計画されましたが、何らかの理由により平屋建に計画変更されたもので、母屋にその痕跡が残っています。永禄年中(1558 ~1570)平手政秀の子、五郎右衛門が建立したと伝えられています。
 仁王像は各像高2.6mの寄木造で、赤外線写真によって「奉再興、仁王金剛神尊像両躰成就所、壬申中春吉祥日 無洗法師 寄進」の胎内墨書銘が確認されました。
 近くには信長の生まれた勝幡城があり、きっと信長もこのあたりを駆け回ったことでしょう。
(牛頭山 長福寺 住職 鈴木睦 ※特別寄稿)

所在地:稲沢市平和町下三宅郷内309
仁王門、仁王像(市指定文化財)解体修復完成