7代先の子孫と生きる3

豊かな最貧国 東ティモール

広田 奈津子
ひろた・なつこ|
1979年愛知県
生まれ。アメリカ大陸やアジアなど、自然と共生する民族に知恵を学び、音楽交流や映画制作を行う。海外の自然破壊の多くに日本の経済活動が関わっていることを知り、2006年ブログミーツカンパニーを立上げ。企業向けのエコ提案を募り、賛同署名とともに企業へ届け、実現すれば買い支える活動として展開。茨城県の納豆会社が石油系パッケージを間伐材に変えるなど提案が実現された。COP10なごや生物多様性アドバイザー。2009年旧暦にそって行事を行う「こよみあそび」プロジェクトをスタート。ドキュメンタリー映画「CANTA! TIMOR」を監督、2010年公開予定。
巨大な家族
 5年前から、東ティモールをテーマに映画を制作しています。日本の南5,000㎞、常夏の青い海と空が美しい国です。この国は、豊富な地下資源と地政学的な理由により併合を望む隣国インドネシアから軍事攻撃を受け、3人に1人が命を落とし、インフラの7割、民家の9割が破壊されるという過酷な時代が1999年まで続いていました。
 私がこの国に初めて入ったのは2002年。24年居座った軍が撤退し、独立式典が開催される時でした。街はまだ生々しいこげ跡が目立ち、家を焼け出された人々が小屋を建てて暮らしていました。独立という歴史的瞬間に立ち会える、と意気込んで入国したものの、とたんに足がすくんでしまいました。傷ついた人々に一体どんな顔をして会えばいいのか…。しかし、出会う人のほとんどが笑顔を見せて、ときには厳しい生活についてさえユーモアを交えて話し、焼け残った棒切れで作った楽器などを奏でていました。それは私の勝手な想像とは全く違う姿でした。
 さらに驚いたのは、孤独な路上生活者をほとんど見かけないことでした。人口の3分の1を失ったこの国では、家族を失わずに済んだ人はいないほどです。多くの人が天涯孤独になったはずですが、みな不思議と大家族なのです。
 滞在するうちにその秘密が分かりました。彼らの言語には「いとこ」という言葉がないのです。母親の姉妹(村によっては父方)全員をアマー(母さん)と呼び、いとこは兄弟姉妹として育ちます。「家族は何人ですか」と尋ねると、「この前1人生まれたから628人だね」なんて答えが返ってくるのです。私の友人も両親と兄弟を亡くしていて、日本で言えば孤児です。しかし母と呼ぶ人を何人も持っていて、今は縁のある子どもらを養育し、育ての親への仕送りもしています。
 居候先の食事にも、日によって見知らぬ顔が混ざっていました。親類縁者や旅人たちです。居候としてはそうしたオープンさが居心地良く、そう話すと、ある民謡を教えてくれました。「エ~エエ~今日はこうして会えたけれど 明日の身はわからない…」。「エ~」のところは遠くまで響くようにこぶしがきいています。山中を歩く旅人は里が近づくとこれを歌い、里の人は歌声を聞いて空腹の旅人が来ることを知り、余分に食事を用意します。旅人は里に降り、出来立てをいただく、というわけです。日本のようなホテルやインフラは整っていないけれど、様々なことが人間らしく合理的な社会です。
古来から伝わる踊りテベテべ おしゃべりしながら田んぼの仕事 床下は涼しい
優先席がない社会
 歩道はバリアフリーとはほど遠くガタガタで、私も1度、瓦礫につまずいて派手に転びかけたことがありました。その瞬間、前後隣りを歩いていた人らの手が迷わず伸びて私を抱きかかえ、助けられました。以前に新宿駅で見た、転んだ老人の横を素通りして行く通行人たちのことを思い出しました。東ティモールにはエレベータも優先席もないけれど、人々は常に他人を助ける用意ができているように感じます。
 タクシーは適当な距離まで1ドルと相場が決まっているのですが、メーターはありません。あるとき少し遠くまで利用し、降りる際、料金の交渉になりました。3ドル欲しい運転手と、2ドルに負けてほしい私。交渉していると通行人が集まって来て、どこから乗ったのか、さらには運転手の経済事情や家族構成まで話題に出て、結局2.5ドルに決まってお互いに握手。皆が納得して、スッキリとした後味でした。軽い事故を目撃したときもそうでした。車同士が衝突した直後、通りの向こうを歩いていたおじさんが「大丈夫大丈夫!」と叫んで駆け寄りました。瞬く間に人垣ができて話合いが行われ、その場で示談が成立していました。大丈夫と叫んでいたおじさんは関係者かと思いきや、ただの通行人で、何事もなかったかのように去って行きました。
 そんなやり方にも慣れて来た頃、ある教会施設に宿泊しました。首都からの数少ないバスに揺られ5時間。この国では珍しく鍵付きの部屋でした。滞在を済まし、首都へ帰るバスの中で、私は部屋の鍵を持って来てしまったことに気づきました。大失敗です。東ティモールには郵便がありません。バスはもう半分以上来ていました。首都に戻るか、途中で降りるか。バスも1日に1本あるかないかです。困っていると、バスの運転手がいとも簡単に解決してくれました。反対車線の車を止めて、「この鍵をあそこの教会へ頼むよ」と渡し、一件落着となったのです。私にはない発想でした。日本だったら便利な宅配便を使ったでしょう。でも、あの鍵はどんな速達よりも早く、少ないエネルギーで教会へ戻りました。
人が育つ風景
 人の繋がりは子育てにも発揮されています。東ティモールには子育て支援も保育所もありませんが、子どもたちは働く大人について畑や川、市場へ行き、仕事の邪魔になったり手助けになったりしながら遊びます。幼児らは兄姉に背負われ、様々な年齢、障害を持つ子ども、犬やヤギまで入り混じり、立体的な子ども社会が作られています。
 ここでは12歳にもなると立派な年長者。火や刃物の使い方、子どものケンカの収め方、田畑の仕事などを、遊ぶ中から一通り身につけていて、私たち客人や、お年寄りへの配慮は見習いたくなるほど立派です。地域全体で子育てがされる、その安心感は、女性に結婚を躊躇させないのでしょう、質素ながらも大人数の兄弟姉妹をおおらかに育てる家庭が多くありました。日本の少子家庭の理由の上位は「子育ての経済的負担」だそうですが、「最貧国」と言われる東ティモールで見た、ゆとりのある子育て風景が忘れられません。
 滞在した村の村長は「大地、水、人を超えるものを敬うこと。そうすれば人は繋がっていく」と話してくれました。東ティモールでは多くの場合、水が湧く場所が聖地になっていて、節目には水を下さる山の神に感謝を表します。田んぼの収穫もまずは神に捧げ、それからお下がりを分け合います。水も米も、人の力では生み出せないもの。そうした、人には到底かなわない自然の力を意識することで、同じものに育ててもらっている兄弟姉妹として集うことができるというのです。日々の暮らしで自然の力を意識するからこそ、神々への祭り行事が文化遺産としてではなく、暮らしの中で継続されます。祭りの夜、美しく踊る大人らを憧れの眼差しで見る子どもたちがいたのも印象的でした。
懐かしい未来
 海外から明治時代の日本を訪れた人の手記には、私が東ティモールで感じるような社会の豊かさが書かれています。日本の都市がいつしか失ったもの。それは村長が言うように、風土への敬意ではないでしょうか。
 昨年こんなニュースがありました。沖縄の宮古島市の施設開発計画地が「神の通り道に当たる」として見直しになったというものです。奄美や沖縄では、人の住処は山の麓から珊瑚がある所まで。その向こうは神々の住処と言われます。町には祭りをする聖地があって、そこに海と山から道が通っています。1年の節目には神々がこの道を通って人里に来るのです。町が人の都合ではなく、神々の通り道、動物と水の通り道を尊重して形成されています。それとは反対に、人の都合で建物を配置し、自然が欲しいからと公園を置き、川も道も直線にして効率を上げるやり方、自然という相手を「利用してやる」意識でつくられた町は、人をも利用の対象とするような空気をつくり出すのではないでしょうか。弱者を狙う詐欺や空き巣が増えるのも無関係ではないと思うのです。事件が増えるほど法律と警備を厳重にし、壁を厚くするほど人の力は発揮されず、町は不自由になるように感じます。
 森が水を、水が米を育み、米をネズミが食べて、ネズミをキツネが食べる。ネズミ退治の感謝にキツネに稲荷を捧げ、残りの収穫をいただく。川には曲がっている理由があって、蛇にはそこを通る理由がある。自然の中に皆がいて、おかげさまで生きられるという意識は、人同士にも波及し、子どもらに声高に叫ばずとも、自ずと助け合う気風が生まれるのかもしれません。自然に謙虚であれば人の住むエリアは限定され、そうした場所は自然災害も少なく、健康な自然は1年の恵みをきちんとわけてくれる。曲線を描く自然の美しさに人は惹かれ、文化が生まれていく。自然の理にかなう行いは、人の関係性も健全に育んでくれるように思います。「最貧国」であるはずの東ティモールで見た豊かな人間社会。日本の古くて新しい風景が思い描かれました。