保存情報第96回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 割烹料理旅館 丸久 山田正博/建築計画工房
外観 3階 大広間 主階段
■発掘者のコメント
 丸久旅館は、名鉄常滑駅の東に隣接している。昭和11年築の木造3階建て、通りに面して粋な外観を残している。以前から気になっていた建物の一つで、先般、JIA愛知の美術サロン会員と共に、やきもの散歩道をスケッチした後に歓談しようと企画し、利用させていただいた。
 一番東に3階建てがあり、大正期・戦後の2階建てが長く繋がっている。常滑市榎戸の棟梁により工事がなされ、当時は材料がなく苦労したが、3階までの通し柱を使っていると伝えられている。かつては、西側に伊勢湾が広がり眺望が良く、船が横付けされ、海釣を楽しむ客で賑わいを見せていたとのこと。常滑駅も今ではセントレアへの通過駅となっているが、以前は終着駅、その先は海であった。
 外観は、屋根が入母屋造り、開口部に多種の庇が付けられている。2階の中央に半月模様の窓が強調され、割烹旅館としての姿を醸し出している。
 玄関を入ると脇に腰掛けがあり、応接へと続く。南に3階への階段、西に帳場・板場と連なっている。応接の奥に主階段があり、段裏に網代を使ったり、手摺などに凝った意匠が施されている。
 2階は宿泊用の客間が4部屋あり、個々に違った意匠となっている。
 3階は、40帖の大広間があり、床間・違い棚・書院と5間巾あって、床柱は太い自然木が用いられ、格天井と共に、外観からは予想できない空間となっていた。襖絵も桜・夏華が描かれ華やかさを添えていた。大広間の窓を開ければ、隣家の屋根越しに、赤レンガの煙突が望まれ、往時の煙が立ち昇る様も想像された。
 この建物は、駅周辺の再整備計画により、近い将来、取り壊しの運命にあると聞いた。襖絵に目をやると、桜花がややさみし気に映った。


所在地:常滑市鯉江本町6-85
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 興舊山歓喜院大森寺(こうきゅうざんかんきいんだいしんじ) 原眞佐実/原建築設計事務所
大森寺仮本堂 山門より中門を望む 鐘楼
■発掘者のコメント
 名鉄瀬戸線「おおもり・きんじょうがくえんまえ」駅の北側、道路を隔てたところに大森寺はあります。尾張徳川家2代藩主徳川光友が生母歓喜院乾の御方(いぬいのおかた)を弔うため1661年(寛文元年)に創建したもので「興舊山歓喜院大森寺」と称する浄土宗知恩院派の寺院です。
 蓬左文庫に残る1693年(元禄6年)の『大森寺境内大絵図』によると、矢田川堤までが境内となっていて、矢田川の橋から北へ38間のところに総門。さらに北へ38間のところに石橋と畔池。そして現在の名鉄瀬戸線のすぐ北のところに山門。さらに北へ40 ~50間行ったところに中門という広大な敷地だったようで、境内には本堂、常行堂、十三堂、書院等々の建物があり壮麗な機構だったことが分かります。信誉大竜和尚を開山とした当時の寺領は200石で、1690年(元禄3年)には常行堂と鐘楼を建て、寺領300石にもなったとのこと。しかし明治維新後は寺禄がなくなり常行堂も廃され、1876年(明治8年)には火災で、1892年(明治24年)の濃尾大震災では大破し、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風では境内の樹齢300年の老松も倒伏、特長である屋根の左合わせの瓦も破損と、数奇な歴史を重ねて今日に至っている模様です。
 またこのお寺には広さ300坪ほどの池泉廻遊式の観賞庭園があり、書院からは名古屋の茶人、吉田紹和により犬山から移築されたと寺伝の茶席が泉殿風に瓢(ひさご)形の池へ張り出しています。現在は建中寺から移設した建物を仮本堂として、鐘楼、書院、茶席、土蔵、庫裏を残すのみとなっています。隣接する大学などの造成の影響もあってか、池の水が枯れてしまっていますが、昭和44年に発刊された毎日新聞社の『お庭拝見』には、池に水を湛えた頃の庭園写真が「八事八勝館庭園」や「伊藤家揚輝荘庭園」などと並んで掲載されていますので、昔の姿を偲ぶことができます。


所在地:名古屋市守山区弁天が丘809
参考文献:『大森寺境内大絵図』蓬左文庫蔵
『お庭拝見』毎日新聞社