建築人類学の射程6

フィールドワークからの視線

清水郁郎(芝浦工業大学工学部建築工学科 准教授)
しみず・いくろう||1966年新潟県生まれ。芝浦工業大学大学院建設工学専攻、総合研究大学院大学文化科学研究科地域文化学専攻修了。博士(文学)。国立民族学博物館、大同工業大学を経て、2009 年4 月より現職。フィールドワークをしながら、東南アジア、伊勢湾、南西諸島などで住まいと人、環境の相互作用環の微視的研究を続ける。現地社会の建設システムや構法を活かした住宅建設をタイで計画中(2009年に着工予定)。
故郷喪失者
 北タイの海抜1,500メートル近い山の頂上付近にあるアカの村でフィールドワークをしていたときのこと。わたしは、毎日、村のなかを歩きまわり、乾季には汗とほこり、雨季には泥にまみれて、家屋の平面図や断面図をスケッチし、採寸していた。スケッチするべき家屋がなくなると、生活財のスケッチをはじめた。住まい方や暮らしぶりに加えて、村の歴史、政治、経済、宗教、慣習法などについてインタビューをおこない、村のどこかで頻繁におこなわれる儀礼を観察し、人びとの日々の語りを記録した。
 村人にとってみれば、自分たちが普通に暮らしているだけの世界を、なぜあの男はいろいろと調べているのか不思議だったろう。村人は、わたしがやっていることに興味を示す代わりに、小中高、大学と、20年ものあいだ教育を受けたにもかかわらず、ことばも通じない、家族もいない場所で、肉体労働のような仕事をしているわたしの身の上を憐れんでくれるのだった。
アカの村人との記念撮影
建築のリアリティ
 建築計画学の研究室にいたわたしは、デザイン・サーヴェイやフィールドワークをとおして、人びとが建築とリニアにつながっている世界があることを知った。エーゲ海の島々をまわり、北タイの少数民族の人びとのあいだで暮らし、国内では奄美や琉球で民家の調査をした。人びとの背後にあり、ことさらに存在を強調しない家屋。風景のなかの添景のようにたたずみながら人びとの日々の暮らしの現実と地続きであるそうした家屋をスケッチし、実測する日々がつづいた。それは、喜怒哀楽、生と死などを含んで成り立つ生々しい建築のありようを理解する過程だった。
 家屋は、個人の世界で完結することはない。たとえば、家屋建設のとき、アカの村では、多くの人びとが労働力を供出する。現場では、施主の家族が幾日も酒食をふるまい、手伝いの者たちをねぎらう。当然、手伝ってくれた人びとが家屋を建設するときには、仕事を手伝う。労働交換とも互恵制ともいえるものがある。
 人びとは、家屋建設にかかわることで、自身が共同体の一員であることを追認する。決して、社会のなかでひとりぼっちではないことを、家屋の建設作業をとおして感じるのである。建設ばかりではない。家屋を舞台にしておこなわれるさまざまな人びとのいとなみ、たとえば、誕生から結婚、葬式といった通過儀礼に、自身が主役となったり、主役をサポートする役を担ったりして参加することで、共同体の一員であることを追認するのである。
東南アジア
 東南アジア大陸部では、個人と社会のあいだに位置し、両者と絶え間なく共鳴し合う建築物のありようを知ることになった。個人や社会が変われば、建築も変わりうる。建築が変われば、個人も社会も変わりうる。そうして相互に影響を及ぼし合うことで、人も建築物も次第に変わっていく。北タイの山地の人びとは、一見すると、定まった形式の家屋に暮らしている。わたしたちは、アカ族はこのような家屋、リス族はどのような家屋といった、民族集団ごとの家屋形式を夢想しがちだ。しかし、人も変わるし、家屋の形式もそれにあわせて変わるのである。
 このような見方は、民族集団とか文化を実体化、本質化し、永遠不変のものとして歴史のなかに固定する牧歌的な見方と一線を画すものであることはいうまでもない。つい10年ほど前まで、アカの人びとは、自らの家屋がどうしてそのようなかたちであるのかを神話的世界とからめて説明し、それを誇りにさえしていた。しかし、現在では、多くの人びとがキリスト教や仏教などの世界宗教を受容し、神話的世界観に根ざす精霊と祖霊への信仰を捨てた。それにあわせて、家屋の形式も、家屋が持つ意味も変わった。ただし、そのことをわたしが悲嘆してもしようがない。むしろ、そうであるからこそ、建築も人も創造的であり続けることができるのである。
移住して数年後の家屋。1990年代のアカにて 屋根の葺き替え 新築された家屋。2000年前後
生の最前線
 東南アジアでは、人が家屋を建設し、暮らすことが自明ではないことをいつも教えられる。それは、人の心性の理解しがたさや社会の複雑さを思い知る過程でもある。
 世界経済や文化の中心から遠く離れた周縁で、人びとは伝統を尊重し、自然と共生して暮らしている。わたしが出会った多くの人は、素朴で、喜怒哀楽に富み、自然にかかわる叡智にあふれていた。しかし、わたしたちが往々にしてそうであるように、あるいはわたしたち以上に、人びとは狡猾であり戦略的である。それは、国家や社会と対峙するなかで、人びとが自ずと身につけた所作のように思える。
 国家や社会が実体を伴って立ちはだかるという感覚は、わたしたちには遠いものかもしれない。しかし、彼の地では、それらは無慈悲な女王のごとく現前することがある。
 北タイの山地には、比較的最近、隣国ミャンマー(前ビルマ)での戦乱を逃れて越境してきた人びとも多く暮らす。20年ものあいだ、ミャンマー国内を転々としてきた集団もいる。だが、事情はどうあれ、国民国家であり王国であるタイにとっては、彼、彼女らは不法入国者であり、王土の不法使用者である。1990年前後には、ミャンマーへの退去勧告が出され、それに従わない場合は強制退去、さらに従わない場合には村に火が放たれた。わたしも、軍隊によって焼き尽くされた村を訪れたことがある。倒壊した建物がくすぶるなかに、村人たちが呆然とたたずんでいたことを覚えている。
 社会が消滅するのではないかという不安感を抱くときもある。山地のある村では、一度に数十人の少女がバンコクや南タイ、外国に売られていった。人身売買では、相対的に弱い立場の山地社会が性産業や工場労働への供給元としてターゲットになりやすい。加えて1990年代のタイでは、HIV(ヒト免疫不全ウィルス)が蔓延していた。町や都市に出て行った若者、とくに少女たちのなかには、AIDS(後天性免疫不全症候群)を発症して帰ってくる子たちがたくさんいた。ある者はそのまま亡くなり、ある者は自ら命を絶った。閑散とした村を訪れたときには、人びとが農作業で出払っているのとはあきらかに異質の寂しさや、人の尊厳が踏みにじられたような悲しさを感じたこともある。
 1990年代の半ばから後半には、タイ経済が破綻した。タイ通貨は暴落し、企業倒産は常態化し、物価は上昇した。山地でも、どのような作物を作ろうとも満足な値で売れず、人びとの生活は困窮していた。わたしが当時滞在していた村では、新天地を求めて、低地に移住した若い家族がかなりいた。子供がまだ小さく、労働力にはならない代わりに、教育費や養育費がかさむ世代である。しかし、移住していった先でも定住できず、そのまま所在不明となった家族も多くいる。
 建築は人との地続き的なかかわりなくして存立できないはずだし、建築は社会のなかに置かれる。だから、わたしがこの地域の建築を考えるときは、これらのことを切り離すことはしない。ただし、フィールドワークは、さまざまな出来事を受け止め、前向きに生きようとする人びとの姿をも照らし出してくれる。人びとは、生きることを意図して家屋をつくる。そこに住み暮らしていこうとする思いにあふれている。そうした思いをくみ取れるように、人や社会への想像力を喚起し続けながら、さまざまなフィールドとかかわっていきたい。  ( 了)