7代先の子孫と生きる 2

大地を母とする人々

広田 奈津子
ひろた・なつこ|
1979年愛知県生まれ。アメリカ大陸やアジアなど、自然と共生する民族に知恵を学び、音楽交流や映画制作を行う。海外の自然破壊の多くに日本の経済活動が関わっていることを知り、2006年ブログミーツカンパニーを立上げ。企業向けのエコ提案を募り、賛同署名とともに企業へ届け、実現すれば買い支える活動として展開。茨城県の納豆会社が石油系パッケージを間伐材に変えるなど提案が実現された。COP10なごや生物多様性アドバイザー。2009年春からは唄いながらの田んぼや旧暦の行事を楽しむ「こよみあそび」プロジェクトをスタート。
森とブルドーザー
 幼いころ、近所には雑木林が広がっていました。イタチやカブトムシ、ホタル、木肌を行き来するあまたの昆虫…森の中はいつも賑やかでした。森には何となく、これより奥へは入れない、という境界があって、夕方になると何だかただならぬ気配を感じ、暗闇に追いつかれる前に、と急いで帰ったものです。子どもにとっては少し怖くて、ふところ深く、大きな森でした。しかし、経済的には価値もない雑木林だったのでしょう。10歳を超えたころ、宅地化のために切り開かれはじめました。遠くまで広がっていると感じていた森があっという間に、見晴らしの良い更地になりました。森に立ち込めていた怖いほどの気配も嘘のように消えました。まるで魔法が解けてしまったかのような空しさでした。
 私は子ども心に混乱していました。森には確かにあまたの命が暮らしていました。春にはイソイソと巣作りをはじめて、それぞれ子どもたちを一生懸命育て、色とりどりでした。それが瞬く間にブルドーザーで一面、黄土色の更地になったのです。
 子どもたちに「殺しちゃだめ。外見が違ってもいじめちゃだめ」と口を揃えて言っていたのは大人たちです。その大人たちが、他のすみかを破壊して、謝ることもない。それは、命が命でないように扱われる、残酷な光景でした。生物たちがもし自分たちと同じ目鼻立ちをしていたら、樹からも赤い血が流れたなら、そんな殺され方はされなかったでしょうか。
 森の中でも日々殺しは起きていました。まだ生きているバッタをアリたちが巣穴に引きずり込んでいました。しかしそれは真剣な、無駄のない行いでした。人間たちも、その命で生かされる感謝を表し、真剣な態度であれば、殺しも風景の一部になれたはずなのです。雑木林を重機で更地にする光景は、文化的な根っこを持たない、刹那的で心を落ち着かなくさせるものでした。
幼いころ遊んだ雑木林で 宅地化する森
一冊の絵本 老人との出会い
 森の伐採は何年も続き、私は大学生になりました。ある夜、遠くの地面に、棒に結えられた白いものがヒラヒラしているのが見えました。重機のわだちが無数に残る荒地に、ひとつだけポツンとありました。私は地鎮のための御幣(神代)だと思いました。こうして森を更地にした大人たちも、地の精霊を鎮めようとしているのだと心が動き、わだちのデコボコを乗り越えてそれを目指しました。
 近づいてみて、それが棒に引っかかった白いレジ袋だということに気づき、私はガックリと膝をついてしまいました。もはや自然に対し、何の感謝も払われないのだと知り、力が抜けてしまったのです。
 それからまもなくして、ある絵本に出会いました。「父は空 母は大地」というその本は、あるアメリカ大陸先住民の首長による実際のスピーチが書き留められたものでした。150年ほど前、白人が彼らに土地の明け渡しを迫り、何人も死んで、ついに首長は土地を去る決断をし、白人に向けてスピーチを行ったのです。そこでは「もしどうしても 私たちがここを去らなくてはならないのだとしたら どうか白い人よ 私たちが愛したように この大地を愛してほしい。大地は私たちの母。赤子が母親の胸の鼓動を慕うように 私たちは大地を慕っている」と語られていました。私は立ち読みであるにも関わらず、書面にボタボタと涙を落として、その場を離れられなくなりました。更地になったあの森も、たくさんの生き物を育むまさに母親だったのです。大の大人が、しかも部族のリーダーが、臆面もなく堂々と、大地は母であると言っている。こんな人々もいるのだということを初めて知り、私はカナダへ向かいました。そこでアメリカ大陸先住民の部族が集まる「パウワウ」の儀式に参加し、ある老人に出会いました。
 彼の顔は深い皺だらけでした。じっと揺れない黒い瞳に、私の顔が映っていました。彼は私に「お前は、大人かい。それとも子どもかい」と尋ねました。年を聞かれることはありますが、こんな質問は初めてで、私は口ごもりました。すると彼は少し笑って、「大人は部族会議に参加する者だ。それ以外は子ども。我々はあらゆる大切なことを部族会議で決める。必ず7代先の子孫とともに決める。子どもはまだ会議に参加しない者。大いに旅をしなさい」と教えてくれました。
 7代先の子孫−今の選択が、将来の子孫にとって毒になるものか、命を育むものか。その上で話し合い、道を選ぶということ。子どもは旅をして、大人が想像し得ない新たな風を入れる存在として尊ばれていること。彼らが教えてくれたことは、私の大きな指針となりました。たとえ立派な服を着て、社会を治めるような大きな人でも、大人ではない場合があります。一方、表立って声高ではないけれど、7代先の人々に繋がる仕事を黙々と続ける大人に出会うことがあります。
輪を描く時間
 「未来のために環境活動をするなんて偉い」と言うことがあります。しかしカナダの老人の言葉からは、7代先を考えることが立派なのだという意味合いは少しも感じられませんでした。
 彼らは「ホッカヘイ」と挨拶します。「今日は死ぬのに良い日だね」という意味です。7代先の人々の命を感じることは、未来と繋がり未来に生きること。先祖からの授かり物を未来へ繋ぐことで、彼らの時の感覚は輪を描いているように思います。だから、死や老化に背を向ける必要がないのでしょう。あの老人の目が、揺るがない、貫くような光を持っていたのは、幾世代も繋がっていることで、子どものような安心した心を目に宿していたからかもしれません。彼のような人に会うと、7代先と繋がることは意識的な「偉い」行いではなく、生きて死ぬことそのもののように感じるのです。
歌声の記憶
 カナダの老人たちが行った「パウワウ」の踊りで歌が歌われた瞬間、私は驚いて動きを止めてしまいました。遠くまで響くような長く伸びた語尾に聞き覚えがあるように思ったのです。記憶を辿ってみると、昔、祖母がカセットテープで聞いていた東北の民謡でした。遠く、飛行機に乗って白人の街へ来て、巨大なドリンクやステーキに驚き、慣れない言葉でよそよそしくしていたのに、一気に祖母の懐へ距離を遡ったような、不思議な気持ちでした。それを老人に伝えると、彼は驚きもせず、日本人も同じ先祖を持つこと、共通する祭りや文化が数多くあることを教えてくれました。
 日本に帰国し、東北へ行きました。そこでまたある老人に出会い、ブナ原生林の山を登りました。彼は高齢にも関らずスルスルと斜面を登り、山にある植物をひとつひとつ指さしては教えてくれました。これは春になれば薬になる。これは毒。これは灰汁抜きすれば食べられる。彼のれっきとした青森弁は、私にとってカナダの老人の英語よりもむしろ聞き取り困難でしたが、とにかく彼の体にはギッシリと生きる知恵が詰まっていました。そしてやはり、村には山を敬う掟や風習が数多く、村人の立居振る舞いから、カナダの老人らと同じように大地を母として慕う心が伝わってきました。
 その後、アイヌ、沖縄、奄美、北欧、ハワイ、アジアの人々と出会う機会に恵まれていきました。それぞれの地に共通して伝わる自然の神々への敬意と感謝、その中で助け合う結ゆいの文化、そして政(まつりごと)としての部族会議と芸術。カナダの老人が言ったとおりでした。大地を母とする文化が、太平洋をぐるっと囲んで世界各地に存在していたのです。
 むしろ、土地に線を引いて所有することや、動植物を生物資源として利用するような、人間を中心に据えた振舞いは、人間の歴史からすればほんのひとときの流行のようなものだと感じるようになりました。
 ここ数十年で日本の地方はすっかり様変わりしました。しかし、他の生物への畏怖の心は消し去ることができていないのではないでしょうか。人間が住む環境が危機に陥っている今、そうした精神性が見直されています。文明の日進月歩の発展と、それとは対照的に、古来から変わらずに伝わる、自然に添った文化。両者が本当に出会い、知恵を出し合う時代が始まったのだと感じています。


伐採直後は、むせ返るほどの樹液の香りが充満する