建築人類学の射程5

老いと死

清水郁郎(芝浦工業大学工学部建築工学科 准教授)
しみず・いくろう||1966年新潟県生まれ。芝浦工業大学大学院建設工学専攻、総合研究大学院大学文化科学研究科地域文化学専攻修了。博士(文学)。国立民族学博物館、大同工業大学を経て、2009 年4 月より現職。フィールドワークをしながら、東南アジア、伊勢湾、南西諸島などで住まいと人、環境の相互作用環の微視的研究を続ける。現地社会の建設システムや構法を活かした住宅建設をタイで計画中(2009年に着工予定)。
老いの風景
 北タイのアカの人びとのあいだでフィールドワークをしていたとき、重要なインフォーマントの多くは高齢者だった。理由は簡単である。はじめは物珍しがっていた若者や子供たちは、相手がさしておもしろくない存在だと気づいたら、たちまち興味を失う。いつの間にか、わたしの相手をしてくれるのは、畑にも学校にもいかない老人か幼児だけになった。おかげで、わたしは、老人たちとも幼児たちともすっかり仲良くなった。
 老人たちとつきあうなかで、わたしは、個々の人びとの多彩な人格とそれぞれまったく異なる生活ぶりをみることになった。それは、高齢者だとか老人といったことばで一括りにはできない、ひとりひとりの老いと死への向き合い方を知ることにつながった。
 80歳を超えたひとりの男性は、長年にわたるアヘンの喫煙により、すっかり肺を悪くしていた。隣家に住み込んでいたわたしのところに、ほぼ毎日、薬を所望に来るのだが、もちろん、わたしにそんな薬の持ち合わせはなかった。鎮痛剤やビタミン剤を渡しながら、詫びる日々が続いた。
 老人は、かつて村長をつとめたことがあり、アカの儀礼や宗教についても卓越した知識をもっていた。薬の礼代わりということでもないが、亡くなるまでのあいだに、わたしは死をめぐるたくさんのことがらを老人から教えられた。さらに、老人のからだを気遣う家族や村人たちからは、老いの考えや老人としてのあるべき姿を学んだ。
 死は、個人の肉体に起きる最大にして最後の事件であると同時に、家族や共同体をも巻き込んで社会的に進行する。いっぽうで、アカにとっては、死は肉体がなくなるという通過点に過ぎない。死後、魂は冥界に上り、そこで祖霊として存在し続けるからである。祖霊は、子孫から永続的にまつられるが、その代わりに子孫を見守らなければならない。死の後にも、やるべきことがあるのである。
 老人は、死を恐ろしがることも嘆くこともなかった。死が確実に自分に訪れると悟ってからはそれを受け入れたし、死を待ち焦がれてさえいた。人びとも、日々、死に向かって生きていたその老人に、慈しみと尊敬の目を向けていた。
 北タイや北ラオスでアカの村を経巡っていると、不思議と、いわゆる寝たきりの老人に出会わない。東南アジアの大陸部や島嶼(とうしょ)部をフィールドとする研究者仲間に聞いても、同じことに気づいている者は多い。たしかな理由はわからないのだが、感覚的には理解できる。
 肉体が衰えて起居できないようになれば、そのまま死につながるのである。こうした社会では、現代日本のような高齢者ケアの制度も発想もない。高齢であっても、自身の肉体のケアは自分でしなければならない。自身の手がおよばないところは家族にゆだねられるが、その範囲も限られている。ひとたび立ち上がれなくなれば、仰臥したまま死に向かうしかないのである。
 くだんのアヘンの老人は、まさにそうした老いと死を体現した。老人は、最晩年、骨と皮だけになったそのからだをやっとのことで運び、隣家のわたしのところに薬を所望しに来るのだった。亡くなる前日には、自力で立ち上がることも腰を上げることもできなくなっていた。その日、家族と親族が集まり、最後の「力をつける儀礼」がおこなわれたさいには、息子や孫たちの助けを借りて儀礼の卓を囲んだ。最後の気力を振り絞ったその所作は、村を主導してきた者としての気概を子孫に示すと同時に、老いの行く末が肉体の終焉であるという単純な事実を生々しく示していた。
北タイのアカ。儀礼時、床上に居並ぶ老人たち ふるまいの席で食卓を囲むアカの老人たち 孫娘たちと軒下で刺繍をする老婆
老いの社会空間
 東南アジアの山地で生き、死んでいく老人たちをみると、老いとは、それほど悲しむべきことでもないという感覚をもつ。老いはだれの肉体にも精神にも起こり、不可逆的に進行していく。
 山地社会には、そうした老いを受け入れる土壌がまだまだある。たとえば、アカでは、老人たちは社会的にもっとも高い位置にいる。その様態は、家屋内外の空間のオーダーにもしばしばあらわれる。さまざまな儀礼や祭礼のとき、老人たちは、もっとも位の高い空間に席を占める。さらに、老人たちのなかでも最高齢の者が、その空間のなかで最上位の場所に席を取る。ふるまいの食事のときには、老人たちが最初に箸をつける。若い世代の男性も女性も、そうした場では、かいがいしく老人たちへのサーヴィスに徹する。
 ただし、闇雲に年を重ねても、決してその地位に届くことはない。老人とは、社会的に構築されたカテゴリーだからである。では、ある個人を老人たらしめるものとはなんだろうか。それは、知識と経験である。世界創世の秘密を解き明かす神話や行動規範となる寓話、格言、慣習的知識。そうした知識をもとに、自身もこれまで生き延び、家族をもち、老いてきたというその経験自体。
 だから、老人のことばは重い。アカには、「老人が食べないならば食べるべきではないものがある。老人がしないならばするべきではないことがある」ということばがある。そして、個人や共同体が窮地に陥ったとき、人びとは老人の意見を仰ぎ、彼、彼女らが経験した前例にもとづいてその状況を脱しようとする。
 わたしが滞在していた村でも、あるとき、村の重要な祭儀の道具であるブランコに雷が落ちたことがあった。落雷は邪悪な霊の襲来であり、ブランコへのそれは村落全体へのきわめて大きな災厄と解釈された。だが、村長をはじめとする若い世代の村人はそうした経験をしたことがなかった。すぐに老人たちが呼び集められ、彼らの指示に従い、災厄を祓う呪的方法が実践された。
屋内に安置されている老人の亡骸 供犠された水牛を前にした儀礼。水牛は、魂が冥界まで旅をするときの食糧になる 北ラオスのタイ・ルー。祖父の手をなでさする少女
住まいで老いる
 日本人の理想的な死に方として、少し前までは、畳の上で、といった考えがあった。畳の上とは比喩で、要は生を終えるならば横死でなく自宅で、ということだろう。これには、もちろん死の前段階の老いの過程も含まれる。しかし、現在では、住まいの本来の機能を請け負ってくれる社会サーヴィスの高度な発展によって、死ばかりでなく、老いそのものも住まいの外でおこなわれる。
 数年前、北ラオスの中国国境に近いタイ・ルーの村で2週間ほど調査をしたとき、ともに80歳を超えた話し好きの老夫婦の住まいにお世話になった。老人は、数年前に倒れ、半身が不自由になっていた。話の折々に思いどおりにならない自分のからだを嘆き、しかし笑い話のようにその苦労を語るのだった。
 ある日の朝、その家に中学生くらいの少女が訪ねてきた。他村で暮らす孫のひとりで、その日は学校が休みなので、祖父母のところに遊びに来たのだという。
 少女と老人は、窓際に椅子を並べて向かい合い、なにやら楽しそうに話していた。しばらくすると、少女は、老人の利かなくなった方の腕を取って自分の膝に乗せ、なでさすりはじめた。それは、かなり長い時間、続いた。少女は時々こうして老夫婦を訪ね、同じように老人のからだをいたわってやるのだという。老人のうれしそうな顔が印象的だった。
 総人口に占める65歳以上の比率、いわゆる高齢化率が21パーセントを上回った現在、日本はすでに超高齢社会に至っている。この比率は、上昇こそすれ下降することはない。そうしたなかで、老いを制度としての福祉に還元するだけでよいのだろうかという疑問がある。制度もたしかに大切だが、地域社会で育まれ、家族のなかで醸成された老いの価値観を思い出すべきではないだろうか。理想論であることを恐れずにいえば、個人の肉体が基礎となり、住まいのなかで進み、やがてそこで終焉を迎えるのが老いの本来のあり方である。