保存情報第92回
登録有形文化財 凱旋紀念門 藤田淑子/名古屋文化短期大学
 
全景 「凱旋紀念門」石盤 柱上部鋸歯飾り
■紹介者のコメント
 浜松の北、小一時間ほど車を走らせると、閑静な山間の渋川の手前、この村の氏神さま六所神社参道の登り口に、レンガ造の「凱旋紀念門」がひっそりと建っている。
 1906年に建てられた、およそ幅3.6m、高さ3.6mの小振りなこの凱旋門は、プロポーションの美しいデザインである。閉合形に置かれた約75 cm角の土台の上には約40 cm角、高さ64 cmの切石が置かれ、この村の日清・日露戦役従軍者名と、建造のために寄付した人の名が刻まれている。2本の柱の上にはアーチが組まれ、その上の壁もフランス積みレンガ造で、「凱旋紀念門」と刻まれた石盤が嵌め込まれている。笠石は2段構えで構成され、上は30cmの高さの江戸切仕上げ、中央には錨と旭日旗が刻まれていて、その当時が偲ばれる。その下はレンガの積み方に変化を持たせ、柱の上部は鋸歯飾りが施されている。
 凱旋門といえば、英雄を讃える緑門や木造の仮設の門などがほとんどであったその頃、横浜開港記念会館や舞鶴赤レンガ倉庫群をはじめ、レンガ造の建造物が各地に建てられた。この地域の開発に尽力を惜しまなかった大石喜三郎・勝太郎父子は、レンガ造の美しさに魅せられてか、後世に遺すためにか、この凱旋門をレンガ造りにしたいと考え、高額を承知で自らも寄付し、村人からも寄付を募ってつくり上げた。
 戦後、こうした戦争を礼賛するような建造物への批判から取り壊しの声も上がったが、単なる凱旋門ということでなく、従軍した人たち、大石父子の名を末永く残したいとの村人の強い願いによって生き長らえ、今日も静かに歴史を見守っている。
参考文献
・静岡県引佐郡史(下)p.283
・東海展望 1959年7月号 pp. 20-22 
・静岡の文化 2001-03 静岡県文化財団 pp. 58-59「凱旋紀念門」荒川章二
・引佐町の文化財解説シート(引佐町立図書館)

所在地:浜松市北区引佐町渋川3795
登録番号:22−0079
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 建中寺(徳興山 崇仁院 建中寺)と界隈 福田一豊/福田建築事務所
筒井町通りから総門を通して三門(奥)を見る 残された石垣 石垣の上にある樹林帯
■発掘者コメント
 私が中学校時代に通っていたのがこの建中寺の西側にある旧明倫中学の校舎に仮住まいしていた“あずま中学”(現愛知商業高校)で、この界隈は少年時代の懐かしい思い出の場所です。その当時の建中寺の境内は規模もずっと大きく、卒業後しばらくして区画整理により、東区役所、あずま中学など数多くの施設が寺域の中に建てられ、境内はかなり縮小されてしまいました。南にある建中寺公園も境内の一部で三門(山門ともいう)前の東西の道路はなく、筒井町から代官町へと続く商店街通りに接した南側の総門が正面入口でした。ふだん通学には寺の北側の道路を使っていましたが、道草をするときなどは賑やかだったこの商店街通りや迷路のような境内の中を歩いてよく家に帰ったものです。
 この寺は浄土宗の寺院で慶安4年(1651)に第2代尾張藩主徳川光友が、慈父である藩祖義直(正室は春姫)の菩提を弔うため建立し、江戸時代を通じて代々の尾張藩主の廟が置かれていました。創建当時、周囲は石垣と堀で囲まれ、約5万坪(165,000㎡)の境内には多数の堂が立ち並んでいましたが、天明5年(1785)の大火災で総門と山門を除き焼失し、翌1786年から1787年にかけて再建されました(Wikipediaより)。現在も県指定有形文化財の霊廟や8棟の市指定有形文化財の木造建築が残されています。
 また、あずま中学の西および北側道路沿いに残された石垣と樹林帯は寺の一部であったことを示す貴重な物証です。ここは名古屋市の文化のみちの「寺めぐりコース」に入っていて、季節になると見事なつつじや桜など見応えもありますので散策をしてみてはいかがでしょうか。

所在地: 名古屋市東区筒井1-7-57
建設年: 総門・三門/慶安5年(1652)、源正公廟(光友の墓所)/元禄14年(1701)、御成門/正徳4年(1714)、
霊廟/天明7年(1787)※建中寺資料より、開山堂/天明6年(1786)、本堂・鐘楼/天明7年(1787)、
経蔵/文政11年(1828) (注)経蔵は平成14年(2002)~16年(2004)平成の大修理が行われた。
アクセス: 地下鉄「車道」より徒歩10分/市バス「東区役所」より徒歩2分