建築人類学の射程4
光と闇
清水郁郎(芝浦工業大学工学部建築工学科 准教授)
しみず・いくろう||1966年新潟県生まれ。芝浦工業大学大学院建設工学専攻、総合研究大学院大学文化科学研究科地域文化学専攻修了。博士(文学)。国立民族学博物館、大同工業大学を経て、2009 年4 月より現職。フィールドワークをしながら、東南アジア、伊勢湾、南西諸島などで住まいと人、環境の相互作用環の微視的研究を続ける。現地社会の建設システムや構法を活かした住宅建設をタイで計画中(2009年に着工予定)。
てらいのない明るさ
 最近、照明や空間が明るすぎると感じることが多々ある。駅のホーム、デパートのなか、職場。街灯で照らされた夜の屋外。壁面の大部分がガラスになっており、陽光が降り注ぐ教室やオフィス。抜群に快適で、仕事や学習の能率があがりそうな現代的空間。
 しかし、わたし個人に限っていえば、ときとしてそうした空間に足を踏み入れることをためらわずにいられない。もっと素直にいえば、逃げ出したくなるときがある。それは、最近のハイヴィジョン映像の大画面で、画面のなかの人の顔の微細なしわまで映し出されてしまうのをみたときの困惑に似ている。自身の思惑を越えて曝け出されてしまう姿を、隠したくなる感覚だ。
 こんなわたしは、現代的空間にそぐわないおかしな存在なのだろうか。さいわいなことに、そうではなさそうである。わたしの知っているかたで、夜に新幹線に乗るときは必ずサングラスをかけるという先生がいる。新幹線車内の照明があまりにも強すぎるからだという。わたしたちにそぐわない現代的空間もあると考えたい。
 江戸から明治にかわった当時の、文明開化のエピソードを持ち出すまでもなく、照明は世の中を照らし、「近代」の精神を体現する。今にいたるまで、明るいことは至高の価値であるようにさえみえる。反対に、その価値に疑問を呈したり、嫌いだと明言したりすることははばかれる。だが、はたしてそれでよいのだろうか。暮らしが快適であるにこしたことはないが、なにが快適かを判断するのは社会である以前に個人であるべきだ。
ラウィーの老夫婦が暮らす家屋
生活空間のなかの暗闇
 東南アジア大陸部の農山村をほうぼうと歩き回った。そうした地域は、日本からみれば周縁の周縁であり、経済状態や物質の保有という面では、日本で暮らすわたしたちのそれらとはずいぶんおおきな違いがある。
 家屋やそこでの暮らしも比較的簡素であるが、それだけに光も自然のままに近い。昨年の3月に訪れたラオス南部セコン県のラウィーの人びとの村で、一組の老夫婦の家屋を調査した。80歳も超えたかとみられる夫婦はふたり暮らしで、質素ながらもしあわせそうに暮らしているようだった。
 精緻な文様が施されたその家屋は、妻入りの高床形式だった。妻側の一面は壁がなく、そこに階段が取り付けられている。その階段を上ると、平側の長さの半分以上におよぶ深い軒先空間となる。そこは夫婦の昼間の居場所となっていた。その奥に扉がもうけられた壁があり、その壁の向こう側が屋内空間である。だが、扉以外建具のないその屋内は、扉を開けてさえも驚くほど暗い。わたしが実測をするには、目をよく凝らすか懐中電灯の助けを借りなければならなかった。だが、当の老夫婦は、いともやすやすと暗闇を動き回るのだった。そこには、きっと順応ということもあるだろう。長い時間をそこで生きれば、身体感覚がフィットし、いつの間にか、とくに意識せずに暗いなかを自由に動くことがある程度はできるはずだ。
 こうした生活空間は特別なものではない。わたしが2年のあいだ滞在したアカの人びとの家屋は、暗いことこのうえなかった。
 わたしがそうだったように、アカの人びとの家屋にはじめて足を踏み入れた人は、屋外から射し込む光の少なさにまずは驚くことだろう。しかも、暗闇のなかに、そこの主人である男性が座って、こちらを注視していることに気づいたりすれば、さらに驚くことだろう。
炊事場の様子。シャッター速度を調整してもよく写らないほど暗い
闇の意味するところ 夫婦の家屋の奥の扉を開けたところ。屋外の明るさとは対照的だ
 アカの人びとも、料理をつくるときなど、手元を懐中電灯で照らす。身体感覚の醸成では追いつかないぐらいの暗さなのである。なぜ彼、彼女らはこうした暗い家屋に暮らしているのだろうか。
 彼、彼女らが暮らす空間には、人だけがいるわけではない。霊的存在となった祖先が、冥界から家屋にやってくるのである。
 アカの死のカテゴリーはふたつある。「よい死」と「悪い死」である。「悪い死」とは、村の外で不慮の事故で亡くなったり、暴力で亡くなったりする死である。また、天然痘やマラリアによる病死もこうしたカテゴリーに分類される。「悪い死」で人が死ぬと、適切な葬式がおこなわれず、墓地に埋葬もされない。祖霊になることもできない。その反対に、「悪い死」とされない死に方をした老人の魂は、天空のどこかにある「霊の世界」にいき、そこで祖霊となる。祖霊も含めた霊的存在は、闇に存在する。人が昼間の陽光の下で生きることとは対照的なのである。
 祖霊は、年に十数回ある祖先祭祀のおりに、家屋に設けられた祭壇にあらわれると考えられている。子孫が憂いなく日々の生活を送っているかを見にくるのだという。祖先祭祀の日、人びとは、祖霊に献上する飲食物を早朝から注意深くつくる。酒、茶、水などの飲み物と飯、餅、ニワトリの各部位を塩でゆでた料理が用意される。昼間におこなわれる祭祀では、主人が祭壇にそれらの供え物を置く。主人は、祭壇の下に腰を下ろし、しばらくじっとしている。その所作は、祖霊が祭壇に上り、食事を取っていることを示す。
 祖先祭祀に繰り返し立会うにつれて、わたしは、彼らにとって祖霊はたしかにいると実感するようになった。不可視ではあるけれど、祭壇に実際にあらわれているのだという不思議な感覚を、わたしはいつか抱くようになった。科学的な意味で実在するしないはたいした問題ではない。人びとがそうした世界に生きている、ということが重要なのだ。それに気づいたとき、わたしは、暗闇が不自由であると考えるのをやめた。
ラオス南部のタリエンの家屋
月の暗い側
 祖先は霊的存在だが、この簡単な事実があらわす意味はことのほか重い。祖先のように人に幸をもたらす存在ばかりが霊ではないからである。
 村の外には、自然界の霊や「悪い死」により祖霊になることができず、近辺をさまよっている霊が数多くいる。それらは、人に災厄をなす危険な存在である。人びとの隙をついて村の外から侵入するこれらの霊は、しばしば病気やけが、事故などの災厄をもたらす。侵入した痕跡が村で見つかると、たいていは大騒ぎになる。それらを追い出して、浄化する儀礼がすぐさまおこなわれる。
 東南アジアの山地社会での闇は、人とは異なる存在とその世界があることを教えてくれる。闇は、世界を構築し、また、その世界のありようを理解する手がかりとなる。かつて、人類学者の関根康正は、「境界に立つ<住まい>」や「他者と対面する住まい」という考えを示した。ここでいう境界とは自然と文化の境である。だから、境界は、文化的に完全にコントロールし得ない。そこには、得体の知れない存在もあらわれる。それらは、他者、異人であり、あるいは人以外の存在であるかもしれない。住まいとは、本来、そうしたものと出会う可能性をはらんだ、ある種危険な領域をそのうちに含んでいる。その領域には、当然、闇も含まれる。
 現代的空間は、暗闇を徹底的に排除して陰影をなくし、快適さや便利さ、安全性を高度に求めている。人びとの生活がそれを求めるのなら、いたしかたない。しかし、危険でありながら創造、想像の源泉でもあるような他者との出会いの可能性を、自らすでに持たないともいえる。それは、わたしたち人の本質に関わる重大な出来事なのだという予感がある。夜でありながら、周囲の高層ビルやオフィスからの明かりで煌々と明るいキャンパスを歩きながら、そんなことを考えた。
北タイのアカ。呪い師が村に入り込んだ霊と対決する