建築人類学の射程3
永続と一瞬
清水郁郎(大同工業大学建築学科 准教授)
生態系のなかの素材
 1年のうちに雨季と乾季を繰り返すモンスーンアジアには、わたしたちが普段目にするのとは異なる生態世界がある。
 4月ごろから降り出す雨は、籾米をまく時期の到来を告げる。作物の生育にとっては大いなる恵みの雨なのだが、8月ともなれば、1日中降り続くことも珍しくない。北タイの山地に住むアカ族は、8月から9月を「雨を呼ぶ月(イェクバラ)」と呼ぶ。冷たい雨を降らす雲が村を覆ってしまうこの時期は、稲刈り前に当たり、かつては、前年に収穫した米を食べ尽くしてしまうことも珍しくなかった。食料に乏しいこの時期を耐え忍び、10月ごろに雨季が終われば、待望の新米の収穫を迎える。そして、雨が1滴も降らない極度に乾燥した季節が、翌年の3 〜4月まで続く。
 雨季に好んで成長するのが竹である。種類によっては、1日に1メートルも伸びるというこの植物は、もともとは南米が起源とされる。温暖であることに加えて、水分条件も適合するこの地に、持ち前の繁殖力によってまたたくまに広がった。
 豊富に自生する竹は、この地域のさまざまな文化にも深く関与している。竹でつくられたものの種類は数え上げたらきりがない。枝を断ち落とした竹竿は、そのままで物干しや釣り竿になる。なかの節を抜けば笛やパイプになる。昨春、ラオス南部で調査したときには、小ぶりの竹でつくった自家製のパイプで、うまそうにタバコを吸う老人たちに出会った。節を抜いた筒は、水筒や酒筒にもなる。ラオスやタイの農村では、現在でも、長い竹筒に付近の川や池から汲んだ水を満たし、村へと運ぶ子供たちの姿をよく見る。細かく割り、薄くなるまで身を削ったへぎを網代に編めば、多種類のかごをつくることができる。ニワトリやアヒルなどの家禽に加えて、この地域の人たちはブタさえもかごに入れる。貴重品や生活財を収納するかごもあれば、野菜や肉を入れるかご、蒸したもち米を入れるかごもある。ティップカオと呼ばれるラオスのそれは、網代編みの蓋を持ち、幅広の竹のへぎを胴下に回して足をつくっている。
 生業とのかかわりでいえば、農業に欠かせない背負いかご、雨や日差しをよける笠も竹製だ。農業ばかりでなく、魚を獲る筌うけや魚伏せかごも竹製である。北ラオスでは、全長2メートルを超える巨大な筌を使う人びとがいる。竹菅を利用した楽器、椅子やテーブルなども一般的だし、節を土台にした湯のみや竹から削り出した箸も見慣れたものだ。この地域の人びとの日々の営みに欠かせない生活道具は、ほとんどが竹製なのである。
柱も壁も床も竹でつくられたアカの家屋(北タイ) 竹でつくられたさまざまなかご類(アカ、北タイ)
ティップカオ。蒸したばかりのもち米が入っている 巨大な筌(うけ) (北ラオス) 竹壁を通して柔らかな光が差し込む(ラフ、北タイ)
木材と竹
 モンスーンアジアの伝統的な建築部材といえば、すぐに木材が思い浮かぶ。チーク(Tectona grandis)をはじめとする高級商用材は、日本でもなじみ深い。北タイにかつて存在したラーンナータイ王国の末裔の家屋が現在、バンコクに移築されている。あるいは、かつて北ラオスに栄えたランサーン王国の王宮は、世界遺産都市ルアンパバーンで王宮博物館となり、観光客にも開放されている。これらの木造建築物は、この地域における建築文化の質の高さを如実に示す。しかし、普通の人びとが使う建築用の素材といったら、やはり木材よりも庶民的な竹である。
 切り出して、そのままホゾ穴を空けて柱や梁、大引にしたり、半分に割って根太にしたり、開いてのしたものを壁や床として張ったりするなど、建築部材となる竹の用途は広い。細い竹はそのまま垂木としても使える。半割にして節を取った竹を互い違いに噛ませ、屋根に葺くこともある。へぎをきつく編めば、床上に敷くマットから炉の上にかざす炉棚、寝台の床までをつくることが可能だ。
 北部山地では、現在でも竹がよく使われる。とくに、アカやラフ、カムといった人びとは、高床家屋の建設で竹を使うことが多い。アカでは構造材は木材が多く、竹はもっぱら外壁や寝床の床、棚や寝台などの部屋のしつらえに使われる。いっぽう、ラフやカムは構造材も竹を使う。
 かつて、これらの社会では、生活の質の高さに直結する竹を自在に扱えるか否かが重要とされた。男子は、一振りの山刀を使って竹を切り出し、割り、へぎや竹片をつくり、爪楊枝から家屋まで、日々の生活道具から儀礼神事のための特殊な道具までをつくることができた。社会もそれを望んだ。しかし、近年は、山地でも、鉄筋コンクリートや純木造の家屋の新築が当たり前になった。そうした現場では、低地から専門の大工を呼ぶ。生活道具も、竹を使って自作するよりは、市場で購入することが増えた。
 現在は、竹にとっては受難の時代といえる。山地の人口圧の高まりや商品作物栽培の浸透により、限られた土地のなかで農地を増やさねばならない。木材の伐採や焼畑を伴う新規の開墾は、どの国でも禁じられているからである。必然的に、竹の自生地は減少した。竹の家屋が見られなくなるのも、そう遠いことではないかもしれない。
一瞬の造形
 1990年代初頭。北タイの山地では、竹が家屋建設に好んで使われていた。この時期、ミャンマー(当時ビルマ)からアカやラフの人びとが越境し続けており、建設されたばかりの村も数多くあった。伐採や加工に多大な労力や資金を要する木材よりも、山刀のみで簡単に切り出し、加工できる竹が好まれたのも当然である。
 ミャンマーとの国境に近い山地の頂上付近にあったあるアカの村は、人口数十、総戸数10程度の小ささだった。人びとがそこに移り住んで間もないことは、家屋に使われた竹の部材が乾燥しきっておらず、身の部分が白々としていたことからもわかった。その村では、家屋とそのなかの生活道具、ブタやニワトリの小屋、家屋の隣に開墾されたわずかな畑を囲う柵など、鉄製の鍋以外のものはすべて竹でつくられていた。村長のもとに数日間滞在したが、たけのこを塩でゆでたものが食事ごとのおかずだった。
 村長の語る村の歴史によると、あるとき、人が亡くなった。それ自体はさして特別なことではないが、折悪しく、当時、葬送儀礼を行うことができる祭司がいなかった。死者の魂は適切な葬送儀礼によってのみ、冥界にたどり着ける。冥界にたどり着けない魂は現世にとどまり、人や村に災厄をもたらす危険な存在となる。
 はからずも、そうした状況に陥りかけた村人たちは、祭司がいる別の村に移住した。そこで適切に葬式を行ったが、災厄を避けるために、村人たちはそこにとどまった。数年後、自前の祭司を確保した一部の村人たちが旧村の跡地に村を再建したのである。当時の移住先だといって村長が指差した先は、谷を挟んだ反対側の山の頂上付近だった。目を凝らすと、茅葺の屋根が木々の合間に見えた。
 モンスーンアジアに生きる人びとと竹のかかわりでおもしろいのは、道具にしろ家屋にしろ、それらが永久に使われることはまずないということである。もちろん、長持ちするに越したことはないが、普通の人びとの暮らしには、日本で見られる油抜きや防虫対策のような職人技的技法はない。日々の暮らしのなかで使われたり、水がついたり、虫に喰われたりすることで、生活道具も家屋も少しずつ傷み、壊れていく。しかし、素材はすぐに手に入る。つくるのも容易である。短いサイクルのなかで、壊れ、廃棄され、再生産されていくのが、竹でつくられたものの宿命なのである。
 竹利用の短いサイクルと対照的なのが、竹の開花の長いサイクルである。竹は、種類によっては120年ごとに開花し、その後、枯死することが知られている。北ラオスに通っていたある年の3月に、竹の一斉開花を目にすることができた。白い小さな花を咲かせた竹の群生地は、どこまでも続いていた。地元では60 〜70年に1度とされる開花だった。2度とその地で、竹の花にめぐり合えないことを思うと、少しさびしくなった。
しみず・いくろう|1966年新潟県生まれ。芝浦工業大学大学院建設工学専攻、総合研究大学院大学文化科学研究科地域文化学専攻修了。博士(文学)。国立民族学博物館、総合地球環境学研究所を経て、2005年10月より現職。フィールドワークをしながら、東南アジア、伊勢湾、南西諸島などで住まいと人、環境の相互作用環の微視的研究を続ける。現地社会の建設システムや構法を活かした住宅建設をタイで計画中(2009年に着工予定)。