いろは雑工記 第5回
木と鉄と
 —私の見た日本建築の世界—
望月義伸
㈲伊藤平左ェ門建築事務所 名古屋事務所 所長
桧と原木
 日本には豊かな森林からの木の文化があります。日本建築も山からの木を組む木造の歴史でもあります。その木の代表が法隆寺や伊勢神宮の用材である桧です。
 仕事で最初に出会った木も桧です。担当した光正院仏堂の設計条件の一つが300年の耐用年数でした。木造の耐用年数は柱太さに比例し、その寿命は用材の年輪とも言われます。柱の太さは直径45cmで材種は桧と決まりました。そこで住職の加藤良俊老師が実行されたのが、桧を原木より揃えることです。直径45cmで樹齢300年以上の桧になると市場品も限定され、官材と呼ばれる木曽桧の原木購入となりました。原木購入は国の営林所の市場で入札します。名古屋にも、木曽桧を主とした原木専門店があり、仏堂建設の杉村幸次郎棟梁の紹介で入札資格のある小島材木店に頼みました。
天然材の木曽桧
 木曽桧の下見に同行しては、木曽谷を訪れました。木曽桧は江戸時代は尾張藩が管理したことから尾州桧とも呼ばれ、350年以上の樹齢があり天然更新で育った天然木です。とても木目が積み、香り高い、日本を代表する貴重な桧とも言えます。木曽桧も大量伐採からの減少から、今は保護と育成がされています。かつては日本の各地に天然林が育ちましたが、やがて伐採され森が消えたことを、木曽谷の森を見るたびに考えます。
 入札前の原木は土場と呼ばれる集積場に並べられ、用材に適するものを小島氏と選ぶのですが、原木の状態から製材後を想定するのは永年の知識と勘が必要です。木は欠点(※1)により価格差がつきます。原木の外観、育った山など丹念に調べて入札しますが、見込み通りの木が取れないリスクもあります。俗に山師と呼ばれ、ばくち打ちと同じに見られる起因ですが、思い通りの用材が取れた喜びも大きいものがあります。
 原木選びには棟梁の判断が重要です。立木、原木からの選定が木造建築の木組の基本でしょう。木材の流通から立木や原木からの選定は難しいのですが、木は工場生産の規格品ではなく1本1本に個性があります。木を知るには山からの選定も大切な経験といえます。
堀川のハンドル師
 入札で一喜一憂して揃えられた木曽桧は、陸送(※2)で名古屋の、堀川に貯木されました。原木を川に沈めたことで、樹脂がほどよく抜けて乾燥が円滑になります。堀川の水に海の塩分があることも効果があるようです。仏堂の木は堀川で1年以上浮かべ、最初の製材にかけました。
 製材は木の変形を考えて仕上寸法より大きく挽かれ、材により癖を取るために何度か製材します。仏堂の木材は節が出てもよい、という加藤住職の意向があり、必要以上に材を挽かなくてすみました。樹齢350年以上の木をわずかな時間で挽くのですから、無駄なく木を生かす木取り(※3)が重要です。以前は木挽きと呼ばれる人が木取りをして前挽鋸などで挽きました。製材機械が普及してからは、製材機を操作するハンドル師と呼ばれる人が木取りにあたりました。適材を取るために、どのように原木から木取りするかは、棟梁とハンドル師の永年の経験と勘による計算が必要です。
 原木が挽き割られる瞬間は、いつ見ても感動します。それは、自然に育った木が部材として生まれ変わる瞬間です。また、大切な木の命を奪ってでもつくる建物なのか、設計者が問われる瞬間でもあります。今日、木曽桧や貴重な大径木を挽けるハンドル師が少なくなり、後継者も育っていないのが残念です。
木曽桧の製材とハンドル師 野たたらの操業 和釘、カスガイなど
生きた節
 製材した材はさらに乾燥をし、その期間は長いほどよいのですが、できれば春夏秋冬の1年以上が造営材としては適切でしょう。本来の天日乾燥が理想ですが、今は人工乾燥もします。急激な乾燥は割れを引き起こすこともあります。仏堂の柱は、乾燥割れを防ぐ背割をしませんでした。大きな柱となると、背割をしても化粧面で割れが出ることがあります。まして、背割がないと不安でしたが、経年を見ると、その割れは背割れと違い、芯までの割れはなく、次第に割れ幅が小さくなりました。構造耐力も背割がないほうが有効です。
 木曽桧などの天然木は植林の木と違い、節が大きく生節(※4)が多いものです。節がないことが評価されますが、構造耐力上は材の変形を起こさない程度のしっかりとした節があり、密に育った木が適しています。古建築修理で同じ条件の箇所でも、天然木の古材がその後の補足材より腐朽していないことがあります。現在の木材は育ちの条件からか、古い時代の用材より耐力がないように感じます。
 木造建物が長持ちするには、節のない太った木ではなく、しっかりと節があり密に育った木がほしい。近頃は柱に不適な目まわり(※5)の欠点がある材をよく見ます。倒木が多い山の現状を見ていると、造林は素人ですが、節を嫌うことによる枝払いで樹形のバランスが崩れてしまった影響と思えてなりません。選んで製材され用材でも、まだ欠点のある材はあります。棟梁はそれを適材適所に工夫して木組みをします。
釘が支える
 次に始まったのが和釘作りです。よく、「昔の大工は建物に釘を1本も使わず建てた」と評されます。たしかに軸組は継手・仕口による組立てで金物は使いませんが、垂木や板類の取付けには金物は不可欠です。もし釘がなくなったら、社寺建築は、部材がバラバラと落ちることになります。また、金物の鉄は、江戸時代まではたたら(※6)と呼ばれる手間のかかる製鉄法から生産され、現在の量産鉄に比べ高価だったと推測します。現在はコストダウンに金物を使いますが、古くはコストがかけられる建物でなければ金物を使えなかったのです。その例に、茅葺民家はほとんど金物は使われません。
 このたたらで生産された鉄で、刃物などに使われる鋼を近年は玉鋼(たまはがね)と呼び、今でも玉鋼で作られた道具は珍重されます。玉鋼は優れた鉄で、鎌倉時代以前は、さらに高品質な鉄があったそうです。たたらで生産された鉄は生産地で鋼と鉄に分けられ、包丁鉄(※7)として流通したようです。
 そのように生産された鉄を釘に加工します。現在の丸釘と区別するために和釘と呼ばれる四角い断面の釘がそれです。この和釘があることで解体修理が可能となります。古建築を解体修理すると、大正以後の国産丸釘は錆で腐朽して抜けなくなることが多いのですが、和釘は芯まで錆びなくて抜くことができ、再使用も可能です。また、四角の断面は構造上も有利です。
 いくら良木を使っても、和釘のような金物を使わない限り、解体修理が困難になり、建物の寿命が短くなります。鉄が木造を支えているとも言えます。
和釘作り
 薬師寺の再建事業では、西岡棟梁と鍛冶の白鷹幸伯氏(※8)により古代の釘が再現され使われました。その材料には古来の鉄の性能に近い純鉄が、日本鋼管で小量生産されました。
 仏堂では300年以上を耐える和釘作りを目指しました。住職と杉村棟梁に同行し、関の刀匠である大野正巳氏(※9)に、和釘に適する鉄の話を聞けました。大野刀匠は、野たたらによる鉄作りの名人で、その造詣の深さは海外で高く評価されています。欧州の文化は日本より100年進んでいること、たたらの火色は7色あり、それを見極めることで鉄も鋼も自在につくれることなど、名人ならではの話を聞けました。
 大野刀匠の提言で入手可能な極軟鉄で釘を作ることになり、金物の鍛造には、同じ関の刀匠である中田正直氏と弟子の川島一城氏に杉村棟梁も加わり、工房で1本1本丹念に作られました。桔木(はねぎ)金物(※10)も鍛造し、軒先から増し締めができる工夫がされました。
 その後も、白鷹氏に古代の釘について、横山義雄氏(※11)に近世の釘についてのご教示を得ました。釘には永年の工夫が生かされており、日本の素晴らしい技術の結晶です。加藤住職の「たかが釘 されど釘」という言葉が今も心に響きます。
木と鉄との和合
 木造の金物補強は様々な論議がされてきました。構造設計者からの強度不足を金物補強する提案に対して、堂宮大工からは金物補強により、本来の木の耐久力が短くなるなどの意見が交わされてきました。木造の金物補強は、当然のごとく規定されており、施工者は木が弱るのを肌で感じながらも、金物で耐震強度を確保しなければいけないのが現状です。現代の木造建築は軸組構造ではなしに壁と金物による緊束構造になってしまったようです。
 現代の金物補強に疑問を感じ始めたころに、京都の「八坂の塔」と呼ばれる三重塔の解体修理現場を拝見する機会がありました。そこで見たのは、台輪と大斗が置かれる部分に鉄板が敷かれている光景です。鉄板を敷くことで、台輪の仕口の荒れを止め、大斗の下端を安定させ、荷重や振れによるめり込みを防ぎます。木にはさまれた鉄は錆びにくく、仮に錆びてもメンテナンスは不要です。それを見て目から鱗が落ちる思いでした。そこには和釘のように、木と鉄の良い関係がありました。
 それからは、木の弱点を鉄が補強し、鉄の弱点を木が守る関係がないか、また、お互いの弱点が出るときは、人が手助けしやすくすることができないか…そんな木と鉄が和合した建物ができないか、あれこれと試行錯誤をしています。
 それぞれが目的のために押さえ合うのではなく、お互いを補い合い、力を合わせて和合した建築こそが、永い年月を耐え抜く。それが日本[和]の建築ではないでしょうか。
※1 欠点 欠点と呼ばれるものに「節」「曲がり、反り」「目まわり」「あて」「腐れ」「虫食」「変色、カビ」「辺材」などがある。
※2 陸送 江戸時代は木曽桧は木曽川を筏にして流して、海へ出し、港から再び堀川に運ばれた。
※3 木取り 木取りは鋸の通しかたを決めることで、木挽きは木取りの専門職。
※4 生節 製材して、抜けてしまう節を死節と呼ぶが、それ以外の生枝のあと。
※5 目まわり 本口に、年輪にそって発生した割れ。
※6 たたら( 吹き) 古代からの製鉄法で江戸時代には大型炉にて砂鉄から鉄が生産された。
※7 包丁鉄 大鍛冶場で炭素量を低くして柔らかくした鉄で延板状のもの。
※8 白鷹幸伯氏 鍛冶師。松山市在住。文化財修復、和釘、黒打刃物、道具復元の名工。
※9 大野正巳氏 刀匠。「兼定」。関市住。
※10 桔木(はねぎ)金物 桔木の先端部分で桔木と化粧垂木を緊結して軒先の荷重を吊るための金物。
※11 横山義雄氏 金物師。京都市在住。鍛鉄金物、和釘、錺金(かざりがな)物の名工。
もちづき・よしのぶ
(有)伊藤平左ェ門建築事務所名古屋事務所所長。1956年滋賀県甲賀市生まれ。中部大学工学部建築学科卒。伊藤平左ェ門建築事務所に入社。現在に至る。
社寺建築、数奇屋建築、文化財保存施設などの設計・監理を行う。『社寺建築の銅板屋根』(理工学社)、『近江甲賀の前挽鋸』(甲南町教育委員会編)、「栗林公園掬月亭保存修理報告書」(香川県)他の共著。古い建物の再生活動、木挽、茅葺の修業中。