保存情報第88回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) かつて堀川沿岸にあった建築遺産 暫遊荘 才本清継/才本設計アトリエ
左:暫遊荘外観。左端に見えるのは中村昌生氏 上左:座敷群に囲まれた中庭 上右:2階の備前の間
 「暫遊荘(ざんゆうそう)」は現在、犬山市の木曽川のほとりにあり、世界的な工作機械メーカーであるY社の迎賓館として利用されています。この建築はもともと大正6年に名古屋市中区竪三ッ蔵町に竣工した「旧高松邸」です。竪三ッ蔵町とは今はない地名で、堀川の東側で、北は錦通から南の若宮大通までの南北に長い町でした。堀川との間にはもう一つ別の町が挟まっています。この「三ッ蔵」の町名は江戸時代に藩米を納めるための蔵が堀川沿いにいくつも並んでいたことに由来する、とのことです。
 この高松邸はその後取り壊されることになりましたが、Y社の現会長がそれを聞きつけ、昭和60年(1985年)に解体移築し、平成2年(1990年)に当地に完成させたものです。数奇屋の研究家として高名な中村昌生氏がこの建築を紹介した本を、会長が目に留めたのが事の起こりとのことです。
 玄関を入ると大広間の偕楽の間があり、それに続き鍋島の間、高取の間、萩の間、信楽の間…など6畳から8畳の間が次々と現れ、それぞれ趣向を変えてデザインがなされています。
 会長の「暫遊荘偶感」(Y社発行「暫遊荘」)には、関東大震災以後、関東の数寄者、益田鈍翁氏がここに疎開し、名古屋の茶人を招いて茶会を行い、名古屋の茶道は格段の隆昌を迎えることになった、その記念すべき場所がこの「高松邸」である、と記されています。ここには建築文化はもちろん、幾重にも重なった文化の蓄積があり、尊い遺産として保存されたことは大変価値あることだと思います。
所在地:愛知県犬山市大字栗栖字尾崎744 
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) かつて堀川沿岸にあった建築遺産 旧東松家住宅 才本清継/才本設計アトリエ
東松家住宅外観 土間を見上げる。段状の窓から入った光が漆喰の白壁に反射し、土間内部の間接照明的な役割をしている 窓からの光が土間を通して座敷に入った様子。人工照明はないが、日常生活には不便を感じない明るさ
 もう一つの建築遺産は町家(商家)で、今は明治村にある東松家住宅です。旧町名で名古屋市中村区船入町、今の桜通と広小路通に挟まれた堀川の西側沿岸の地域で、明治34年(1901年)に建てられました。うなぎの寝床の町家でありながら、思い切った工夫で光と風を取り込み、意匠を凝らした数奇屋風の座敷をつくっています。
 3階建ての木造町家で、隣地側の外壁に段状に採光窓をつけています。かつては隣に2階建てが建っていて、その屋根の上から光が入るようと考え、段状の配置にしたのでしょう。この壁の内は3階吹き抜けの土間で、その光がその土間床とその周辺の部屋に差し込んでいます。おそらく建物正面は東向きでこの窓は南向きで、刻々と変化する日差しを楽しみながら快適さも享受したのでしょう。
 この船入町のあったところからさらに少々北へ向かい西区に入ると、伊藤邸やその蔵群で町並みが形成される四間道が今も残っています。名古屋の中心ビジネス街からはずれたことで都市化を免れたといえます。ここ四間道周辺の路地を入ると宅地は細分化され小さな町家が密集し、その中には小さいながらも古い構えを保持している町家もあります。かつての堀川沿いの商業を支えた人たちの住居でしょうか。今はこのあたり一帯で古い町家や蔵などで飲食を商う場所も増え、かつての風情をちょっとだけ味わいながら楽しむこともできます。
所在地
旧東松家住宅(重要文化財)/明治村:愛知県犬山市字内山