建築人類学の射程2
見えないものを見る
清水郁郎(大同工業大学建築学科 准教授)
触ってはいけないものに触る
 もし、あなたが、北タイの山地に暮らすアカの家を訪れて、炉の前にある椅子に無造作に腰掛けたとしたら、その場には困惑した空気が流れるだろう。
 じつは、その椅子、というよりその場所は、家の主人しか座ることのできない場所なのである。
 また、もし、あなたがアカの家で催される結婚式に居合わせて、床上に居並ぶ老人たちとおなじ円卓を囲んで食事をしようとしたなら、愚か者のそしりを受けるのを覚悟しなければならない。
 分別のある大人なら、うながされても決してそのようなことはせず、あくまでも断り抜くのがエチケットである。そもそも、儀礼の場では、床上の円卓の周りは、彼らの社会の判断基準で「老人」と認められた人びとだけが席を占めることが許される場所である。
 わたしも、滞在をはじめたころは、同様のことでたびたびしくじった。円卓を囲む老人のあいだで平然と食事をするという蛮勇をふるったこともある。もちろん、食事の後で、わたしと同年代の村人に丁寧に諭されると同時に、おおいにあきれられた。
 おなじようなことでも、場合によっては大騒ぎになることもある。わたしがはじめてアカの村を訪れたとき、世界中を巡り、経験豊富な建築写真家が同行した。雨季が終わった11月の大地はすっかり乾燥しており、赤土の舞う道を延々と車で登った山の頂上に、その村はあった。
 わたしたちは、村長の家に招かれた。そこで接待を受けながら、さまざまな話を聞いた。その後、家の写真を撮らせてほしいと写真家は村長に頼み、承諾をもらった。
 わたしとその他の同行者が屋外でスケッチなどをしていたら、急に屋内が騒がしくなった。村長の夫人らしい女性が、写真家にしきりになにかを訴えているようだった。通訳を介して話を聞いたところ、写真家は屋内写真を広角で撮ろうとして壁際に三脚を立てた。そこで何枚かの写真を撮るうちに、壁際につるしてあったその家の祭壇に身体が触れてしまったらしい。
 わたしたちは、それぐらいのことでなにをそんなに、と簡単に考えたが、人びとの解釈は異なっていた。その祭壇は、祖先を祀るためのものであり、家人でさえも軽々しく触れることのできないものである。それに触れてしまったからには、しかるべき償いをしなければならない。償いをしなければ、家人は祖先の怒りを買い、災厄に見舞われることになるだろう、というのである。
 わたしたちは、かなり重大な禁忌を犯してしまったことを理解した。浄化儀礼をすぐに執り行うが、そのために供犠するニワトリ代を支払ってほしいと村長が告げたとき、わたしたちは素直にしたがった。
 建築写真家は困惑しきりだった。しかし、彼を責めることはできない。祭壇は、竹の薄片を網代に編んだごく簡素なもので、ほこりをかぶったそれを見ても、大切なものとはとても思えない。ましてや、開口部のない真っ暗な屋内で、生活財が雑然と置かれているなかでそれを祭壇だと識別するのも無理な話である。もちろん、事前にそうした注意事項を聞くべきだったが、後の祭りだった。じきに、年老いたひとりの祭司が呼ばれ、祭壇の前で儀礼がはじめられた。用意されたニワトリが供犠され、祭司による呪力を帯びたことばとともに祖先に捧げられた。
 浄化儀礼はほどなく終わり、わたしたちのしくじりは帳消しにされた。ただし、その日から村に滞在した写真家は、翌日、高熱を発して倒れ、その後の数日は寝たきりとなった。頑健なことで知られた人物としては、かつてない出来事のようであった。
家の奥にある祭壇、稲穂の束が見える 雑然とした家の内部。中央の奥に祭壇がある 祖先に供物を捧げる老女
祖先と子孫
 アカは、1年のうちに、陸稲の栽培を柱とする農耕の進み具合にあわせて、十数回の祖先祭祀を各自の家でおこなう。そのたびに、この祭壇に、酒や茶、ニワトリを供犠してつくった料理、モチ、飯などを供える。人びとは、実際に祖先が家に現れ、供物を飲み食いすると考えている。
 毎年の稲穂の収穫後には、刈り取った稲穂を数束、この祭壇の下にくくりつける。そうしたとき、人は祭壇に触れなければならない。しかし、それができるのは、家族のなかでも限られた人だけである。具体的には、男女の最年長者のみだが、通常は男性の最年長者のみである。男性が不在のときだけ、女性が代わりをつとめる。
 祖先は、冥界から子孫の生活を見守り、安寧に暮らしていける指針を伝える。子孫にとっては、祖先がいることが大きな安心感をもたらすことになる。祖先が宿り、食事をし、酒を飲む祭壇の扱いに粗相があってはならないと考えることは、きわめて当然なのである。
見えないものを読む
 日本人の家を訪れて、床上を平然と土足で歩き回る外国人のエピソードは滑稽だが、その滑稽なことを、人びとはしばしばしてしまう。人が暮らすどのような空間にも、規則ほどではないが、なんらかの決まりごとやオーダーがあり、はじめのうちはそれらを知らないからである。
 だれがどこに座るか、なにをどこに置くか、そして、だれがそれに触ってもよいか、だれが先にそれをするか。だれが、なにを、どこで、どのように、どのような理由で?
 そうした不可視の決まりごとやオーダーが複雑に重層しているのが人びとが生きる空間であり、家であり、さらに言えば建築なのである。そう考えるとやっかいなことのように思われるが、じつはわたしたちは、こうした決まりごとなくしては成長することができない。
 かつて、人類学者山口昌男や社会学者ピエール・ブルデューは、家や空間を書物やテキストのようになぞらえる視点を示した。書物のような、あるいは、びっしりと文字が書き込まれたテキストのような家。書物には、新たな知識や考え方、興味深い物語が書かれているが、家に書かれているのは、さまざまな決まりごとやオーダーが表象する社会関係であり、価値判断の基準や感性の源となる事象である。食事のとき、父親は一番テレビの見やすい位置に座るとか、来客があったときには普段使われることのない部屋に通されるとか、裸足で庭に下り立ったら母親に叱られたなどなど。人は、日々の暮らしのなかで、そうしたことがらを、自分の身体を介して、書物を読むように経験していく。そして、父親や来客とはだれなのかを知り、きれいや汚いとはどのようなことなのかを、暗黙のうちに身体に刷り込んでいく。
 わたしたちが他人の家で奇妙なふるまいにおよぶのは、空間に書き込まれた決まりごとやオーダーを自分の身体を介していまだに読んでいないからである。家を読むことさえできれば、不自由なくそこで過ごすことができるようになる。
 これを人の成長と置き換えてみよう。子供は、成長するにしたがって、家のなかを歩き回り、さまざまな経験をし、さまざまな事象を目にするようになる。日々、身体を介して、家に書き込まれた多様な関係性を、暗黙裡に身体に刷り込んでゆく。それを、一般には成長という。家は、子供の社会化のもっとも大切な舞台なのである。
 わたしがアカの家で暮らしたときのことを思うと、まったくもって赤ん坊と変わらなかった。日々、少しずつことばを覚え、暗闇のなかでいたるところに身体をぶつけ、触れてはいけないものに触れて家人をやきもきさせてきた。そのおかげで、2年がたつころには、幼児ぐらいには成長できたと自負している。もちろん、空間に書き込まれた社会関係を身体的に理解し、数多くのセンスも身につけていた。真っ暗な屋内をどこにもぶつからず、真っ直ぐに、自在に歩けるようになっていたのに気づいたときには、ひどくうれしかったのを覚えている。
しみず・いくろう|1966年新潟県生まれ。芝浦工業大学大学院建設工学専攻、総合研究大学院大学文化科学研究科地域文化学専攻修了。博士(文学)。国立民族学博物館、総合地球環境学研究所を経て、2005年10月より現職。フィールドワークをしながら、東南アジア、伊勢湾、南西諸島などで住まいと人、環境の相互作用環の微視的研究を続ける。現地社会の建設システムや構法を活かした住宅建設をタイで計画中(2009年に着工予定)。