第6回
金華の魅力
道三・信長のまちづくりを未来へ
文化財保護に携わる立場から
内堀 信雄
岐阜市教育委員会社会教育課副主幹
近世の伝承
 金華は「道三・信長」の井口(いのくち)・岐阜城下町を受け継いだ町として知られている。江戸時代の記録『中嶋両以記文(なかしまりょういきぶん)』には斎藤道三によるまちづくりの姿が生き生きと描かれている。山上の伊奈波神社を現在地に移転させ、城下には東西方向に二本の道路を作った。北側の百曲(ひゃくまがり)通には大桑(おおが)の町人を、南側の七曲(ななまがり)通には井口の町人を集めて町を建設したと書いてある。大桑は美濃国を支配していた守護土岐氏の最後の本拠地で、山県市大桑にある。井口は岐阜にもともとあった町。これらの町の周りには堀と土塁からなる惣構(そうがまえ)を建設した。その後、信長は尾張の町人を呼び寄せ、空穂屋(うつぼや)町、新町を作った。道三や信長の時代より100年以上後の記録だからそのまま事実かどうかはよくわからないが、江戸時代の岐阜の人々は金華のまちの成り立ちをこのように伝えていた。
井口・岐阜城下町の発掘
 井口・岐阜城下町では本格的な発掘調査は全く行われていないが、最近10年ほどの間に住宅建設などの開発に先立つ試掘調査が20回以上行われ、半分以上の調査では道三や信長の時代の痕跡が見つかっている。
 岐阜公園駐車場建設予定地で行った調査では、戦国時代の居館域と武家屋敷地区を画する南北道路「大道(おおみち)」の道路側溝(?)や武家屋敷地を区画する溝が見つかった。この道は道三の頃、建設されたと見られる。他の地区の調査でも斎藤道三による井口城下町の頃の痕跡が目立ち、『中嶋両以記文』に記された近世の伝承とよく合う。本格的な城下町の建設は道三によって始まったのではなかろうか。
「大道」側溝(?)の発掘現場 井口・岐阜城下町の試掘調査
井口・岐阜城下町の系譜
 信長が岐阜に移る前の本拠だった小牧城下町の最近の発掘成果によれば、信長は原野に総構を備えた本格的な大都市を建設した。この小牧城下町と井口・岐阜城下町はとてもよく似ている。このような都市は小牧以前の清須には全く認められていないことから、小牧城下町は信長の城下町の出発点として注目されている。
 井口・岐阜城下町の特徴は、経済活動の拠点(町場)と城主の館、武家屋敷地、寺社地などが近接した範囲に街路、水路を介して配置されて、惣構で囲まれていることだ。近世城下町では当たり前となるこのような町はこの頃に出現した。
 惣構に着目すると、東海地方では1530年代後半~1540年代前半頃の大桑城下町において初めて部分的な区画として出現する。大桑は短期間で道三により滅ぼされ、道三が建設した井口城下町に受け継がれた。残念ながら決定的な証拠は見つからないが、これまでの発掘成果を総合すると、私は、小牧城下町とは、信長が道三の井口城下町を学習した町ではなかったかとみている。信長は道三以来の都市基盤がすでに整えられていた井口城下町では小牧のような独自の都市建設を行う必要は無く、道三の遺産を引き継いだのではないだろうか。
信長居館跡の発掘
 1569年ポルトガルの宣教師ルイス・フロイスは信長の保護を求めて岐阜を訪問し、彼の居館を見学している。フロイスの残した『日本史』等には館の華麗さが活写され、我々の想像力を大いにかきたてる。「宮殿は非常に高いある山の麓にあり、その山頂に彼の主城があります。驚くべき大きさの加工されない石の壁がそれを取り囲んでいます。…(略)…広い石段を登りますと、ゴアのサバヨのそれより大きい広間に入りますが、前廊と歩廊がついていて、そこから市(まち)の一部が望まれます」(『完訳フロイス日本史2』ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳、中公文庫)。
 金華山の西山麓、岐阜公園内にある信長居館跡では、これまでに3回の発掘調査と2回の試掘調査が行われ、現在4回目の発掘調査を行っている。ここには、まず古墳が築かれ、鎌倉・室町時代には寺院が存在した。斎藤道三の時期に寺院の跡地を利用しつつ館を建設した。1567年、信長が稲葉山城(信長以降は岐阜城)を攻略した時、この館は全焼し、焼け跡が造成されて新たな館が建設された。フロイスが訪問したのはこの新館だ。発掘では巨大な石列で区画された入口部分や石垣、水路、庭園などが見つかった。石列はフロイスの記す「石の壁」を彷彿とさせる。信長が安土に移った後も6代続いた岐阜城であるが、1600年、関ヶ原の合戦の前哨戦で落城する。この時に館の中枢部も焼かれており、その後再建されることはなかった。これまでの発掘調査で、道三の時期に居館が築かれたこと、それを受け継いだ信長が大改修を行ったことなどがわかってきた。私はこれまで見つかった部分が居館全体の奥(おく)の部分で、その下に表(おもて)の空間があったのではないかと推定しているが、確証が得られたわけではなく、慎重な検討が必要である。


整備された信長居館跡
今に残る道三・信長の町の面影

「かみおおくわちょう」の標識
 関ヶ原合戦の前哨戦で岐阜城が落城した後、旧岐阜城下町の大部分は最初幕府領、続いて尾張藩領の岐阜町となった。江戸時代に新たな都市建設が行われなかったことから、今も町の骨格は井口・岐阜城下町の面影を受け継いでいる。明治24年の濃尾大震災は壊滅的な被害をもたらしたが、見事に復興した。第2次大戦の岐阜空襲では被災を免れ、近年の道路拡幅、マンション建設などによる改変も目立つものの、明治~昭和前期の町の雰囲気をそこかしこに感じることができる。
 伝統的な建物や道、水路などとともにまち歩きで注意してほしいのは交通標識などに見られる町名だ。近世の伝承に出てくる町の名前が散見される。たとえば道三の時作ったとされる「上大桑(かみおおくわ)町」「下大久和町」。信長の時作ったとされる「靭屋(うつぼや)町」「下新町」などだ。
金華の歴史的なまちづくりの課題
 本誌において富樫先生をはじめとする皆様が紹介されているように、金華のまちづくりが、自治会、地元まちづくり会や諸団体、行政によって協働でソフト・ハード両面から精力的に進められている。そのエネルギー、スピード感には並々ならぬものがある。
 一方、我々文化財保護行政に携わる立場の者の課題として、価値証明の弱さを痛感する。たとえば、今日述べたような道三・信長の城下町についても、どうして大切なのかという説明はとても弱い。こうした文化財的資産の価値を明らかにし、PRしていくことがこれからの歴史的まちづくりにはとても重要なことだと考える。


七曲通の現状
私と金華との出会い
 私は20数年前に岐阜に来た。伊奈波神社参道沿いの氷屋に1年間下宿して信長居館跡の発掘に通った。下宿した時、参道沿いに立派な銭湯があったが、1 ヵ月後には店を閉じた。下宿の向かいの洋食屋さんは古い洋風の建物だった。薄暗い店内は少しひんやりとして不思議な空気が流れていた。サッシ窓の無い2階の下宿部屋は冬とても寒く、寝ていると頭が凍るのではと思ったくらいだった。私が金華で過ごしたのはわずか1年間だったが、「ARCHITECT」に寄せられた連載を読むと当時のことが次々と思い浮かんできた。こうした思いを胸に金華の未来へのまちづくりを、文化財に携わる行政職員としてサポートしていきたい。
うちぼり・のぶお|1959年生まれ。1986年名古屋大学大学院文学研究科博士前期過程考古学科修了。
専門は考古学(戦国都市史)。共著書に『守護所と戦国城下町』(高志書院)、『信長の城下町』(上同)。