いろは雑工記 第3回
宮柱太敷立て
—私の見た日本建築の世界—
望月義伸
㈲伊藤平左ェ門建築事務所 名古屋事務所 所長
日本建築の設計課題
 建築にもいくつかの課題があり、日々、苦心するところです。今には今の課題があるように、古くからその時代なりの課題があり、様々な工夫をこらしては、課題に挑戦してきた歴史があります。先人達の努力は現代の発展の基礎となりました。それらの課題は今でも形をかえて登場し、新たな課題として超えなければなりません。日本建築の設計には、これまでの歴史的な課題を知っておくことは、今の課題をひもとくのに大切なことです。私なりに探ってみました。
課題1 屋根作り
 古代人が平地で暮らす家に必要なものは、風雨から身を守る屋根作りから始まったと推測します。日本建築は屋根、西洋建築は壁の建築ともいわれていますが、雨の少ない国では熱風や寒波を防ぐ壁作りが課題になったのとの違いが影響しているのでしょう。
 最初の屋根作りは、テント状に丸太を斜めに組み、茅や木葉を重ねて葺く、屋根だけの建物が原型でしょう。それは映画のインディアンの家のように、その場で作れる簡素なものだったと思います。やがて、定住が出来る竪穴住居と呼ばれる建物に発展します。
 屋根作りの条件は勿論、雨を漏らさないことです。有名な登呂遺跡の復原住居は茅葺ですが、それまでには葺材料を植物の葉や木皮など、入手可能な材料での試行錯誤があったのでしょう。実際の茅葺を体験すると、いかに棟が大切か分かります。棟は重ねが薄くなるので、雨が漏れない、風で飛ばされない工夫が必要です。平葺きの修理は安易ですが、棟の修理は大変です。
 また、棟が日本人にとって重要視されたかは、建築儀式の代表が上棟式であることや、古くは武家の棟梁や大工棟梁など、統率する人を棟梁と呼んだことからも分かります。
 屋根のもう一つの条件が、いかに煙を出すかという難題です。可燃材の多い中、室内で火を使うのでも大変ですが、その必要から煙を出さないと生活が出来ません。棟下に三角の妻を設けて煙出しをするなどの工夫が生れました。さらに、雨の吹込みがないよう棟木を束で持たせ、棟の出が深くなり、やがて、棟や妻の意匠が象徴的に目立つようになります。屋根作りは日本建築の基本テーマと言えます。
課題2 柱を立て
 柱は屋根を支えるものですが、すでに竪穴住居には屋根を支える柱が中に立てられていました。柱が定型化するには、住みやすさを求めて床の要望があり、床高を確保し、室内高さを求めて柱が伸び、桁が組まれ、その上に屋根が組まれ、柱間には壁が作られたのでしょう。矩形の単純な平面に柱が立てられ、切妻や寄棟の屋根が作られました。
 この柱を立てる課題は、やがて独自の意味合いを持って発展し、日本建築の永遠の命題となり、今日に続いています。それは、祝詞※1の詞に『下都磐根爾(シタツイハネニ)宮柱太敷立氏(ミヤハシラフトシキタテ)高天原爾(タカマノハラニ)千木高知里氏(チギタカシリテ)』とあるように、地上より太い柱を立て、天まで屋根が届くような神殿を建てるという信仰の建物へと向かいます。その代表が出雲大社の旧社殿※2です。柱を高く立てることが精神的、象徴的なこととなってゆく。その原型として、諏訪大社の御柱、伊勢神宮正殿の心の御柱のように、柱を立てることに、古代人は神聖なものとして関心を示しました。今でも大黒柱として、柱を大切にする感覚があり、建築儀式にも立柱式があります。また、柱の太さは耐用年数に比例することからも、太い柱を立てることが求められました。
課題3 庇を出す
 質素な建物も、やがて床を広げて縁側や室を増す必要が出てきました。その工夫が庇を設けることです。切妻屋根の妻に庇を設ける春日造りの屋根や、平側の屋根の一部を延ばす向拝や、大屋根の下に裳もこし階※3を作るなど、様々な工夫がされます。切妻の四方に庇を延ばし一体にして入母屋屋根となったり、薬師寺東塔のように裳階を各層に設けるなど、庇を出す課題は日本建築に美しい屋根を生み出してきました。
課題4 深い軒の出
 仏教と共に伝わった仏教建築は日本建築に大きな影響を与えました。大陸の建築を日本で再現することは、工人達にとっても課題が満載だったでしょう。伝来した瓦を焼くことから始め、その重量に耐えうる構造にするなどの課題の中、こだわったものが深い軒の出を作ることです。軒の出が深く、大きく広がりのある屋根を作ることは、壮大で美しい建物にする重要な要素です。また、多雨の日本では、柱や壁の防護に有効で、建物の耐用年数が増します。軒を深くすることの効果は分かっていても、地震や強風には不利となり、重い瓦屋根の自重を支えるだけでも大変です。そこで工夫がされます。
 棰が一軒から二軒、すなわち地棰と飛檐棰の二段となる。柱上の組物(肘木と斗)が柱心より前方を支えるようになる。さらに尾棰(斜材)を組み合わせ、さらに前方を支える組物に発展してゆく。これらの工夫により建物は変化に豊み、美しい外観を実現しました。また、野屋根を化粧棰と野棰の勾配を変え、軒に懐を持たせ、そこに軒を支える構造材を入れる工夫がされる。さらに中世には桔木(はねぎ)※4を用い化粧棰の負担を軽くしてゆく。深い軒を作りつつ、屋根重量を桔木などでバランスをとり、組物で地震時の屋根の応力を軸部に直接伝えないなどの工夫がなされ、外観上も美しく耐久性のある建物が建てられるようになりました。
 このほかにも日本建築の課題は時代なりに沢山あったことでしょう。課題が出されては工夫しての繰り返しで今に続いています。
時代による美意識と様式
 日本建築を設計するときに基本的な知識として、時代別の建築美や様式があります。社寺建築では、宗教や宗派によって歴史的経過が異なり、何を大切にするのか、また、既存建物との調和をはかる上でも留意点です。
 飛鳥時代には法隆寺に代表されるように、柱が木太く雄大な建物が、奈良時代にはより洗練された唐招提寺金堂などが建立されました。平安時代になると、平等院鳳凰堂のように木太いが優美な建物になります。この時代までは、柱の太さで耐震性能を保つことがなされ、今では化粧材となった長押も、この時代には本来の柱をつなぐ構造材の役割がありました。シルクロードからの異文化の導入から平安時代の国風文化へと古代の美意識や工法が完成されます。しかし、乱世には多くの建物が失われてしまいました。
 鎌倉時代になり復興が始まって、新しい建築様式が海外から導入されます。南宋の様式を取入れ、僧 重源によって東大寺が復興され、大仏様(天竺様)が伝わります。この様式は、柱に貫を通した構造の力強い構造美が特徴です。続いて禅宗が伝わり、宋の様式が伝来します。禅宗様と呼ばれ、床が土間に、柱に台輪を置き、貫を入れ、組物も多く、整然で力強いなどの特徴があります。大仏様と違い、その後も日本人の美意識と合致し発展します。これらの新様式は貫を多用して、柱を太くすることなく大きい空間を実現させました。従来の様式は和様として、その後も発展していきます。鎌倉時代の後期には貫や組物などの各様式を取り入れた折衷様と呼ばれる融合した建築美が生まれます。鎌倉時代は新しい建築が進んで試された時代でもありました。
 室町時代になると、各様式も技術的、意匠的にも安定し、工具や木割などの生産技術が発達します。細く装飾的な加工も出来るようになり、繊細で技巧的に建てられました。その後に影響を与える文化の完成期でもありました。
 桃山時代になり、彫刻などが多く用いられ華美な意匠が発展します。これは、それまでの建物が神や仏が中心であったものが、人のものとして、目を楽しますなどの意識の変化とも言われます。江戸時代には特に様式的な発展はなく、木割なども定形化しますが、制限がある中、町屋建築が発展します。
諏訪大社の御柱 安楽寺八角三重塔(禅宗様)
構造美と日本建築
 日本建築の特徴は、柱や桁が構造材で、かつ装飾的な要素があります。柱を太く立て架構をして、大切な屋根を作る伝統建築の美意識は日本人の中にあることは確かです。しかし、大仏様が発展しなかったように合理的な構造美だけでは、日本では受け入れられないようです。タウト※5は著作に「日本家屋の美学はもっぱら巧徴な技巧に基づいている。力学的、合理的な意味での構造というものは元来この国には存しない」と評しています。また、かつての日本建築にあった「往昔の日本にあって存在したに違いない極めて合理的な構造的精神」が薄弱となってしまった。タウトはその原因を手工部門の専門化、規格化による合理性の犠牲によって非合理になったと指摘しています。例えば、柱は掘立てか、礎石に立てたのが、土台の上に柱を立てるようになる。このことで、柱は一定長さになり生産性は上がりますが、横材(土台)のめり込み耐力※6からみると、構造的に不合理と言えます。
 高い耐震性、耐久性を求められる現代において、日本建築も建物と構造の合理性を問い直さなければという課題があるのでは。
※ 1 大祓詞(おおはらいことば) 神道祭祀の6月、12月の大祓の儀に奏上される祝詞
※ 2 出雲大社本殿 三本の丸柱を金輪で一本に束ねて建てる金輪造の跡が発掘されて話題となった高大な社殿、高さは16丈(48m)あったと伝えられる。
※ 3 裳階(もこし) 主体構造部に廻した廊下状の庇
※ 4 桔木(はねぎ) 丸太を用いて桔木枕を支点にして、てこの原理で軒先を支える構造材
※ 5 ブルーノ・タウト(1880 ~1938) ドイツ生まれの建築家。ナチス政権より亡命し1933年に来日。1936年トルコに移住。引用著書は『日本の家屋と生活』岩波書店刊
※ 6 めり込み耐力 針葉樹は、繊維方向の許容応力に対して繊維に直角方向の許容応力(めり込み)は2割程度
もちづき・よしのぶ
(有)伊藤平左ェ門建築事務所名古屋事務所所長。1956年滋賀県甲賀市生まれ。中部大学工学部建築学科卒。伊藤平左ェ門建築事務所に入社。現在に至る。
社寺建築、数奇屋建築、文化財保存施設などの設計・監理を行う。『社寺建築の銅板屋根』(理工学社)、『近江甲賀の前挽鋸』(甲南町教育委員会編)、「栗林公園掬月亭保存修理報告書」(香川県)他の共著。古い建物の再生活動、木挽、茅葺の修業中。