保存情報第84回
登録有形文化財 貞照寺・晩松園 山田正博/建築計画工房
 
貞照寺 本堂  晩松園 玄関


所在地:貞照寺/各務原市鵜沼宝積寺町5-189 
    晩松園/各務原市鵜沼宝積寺町3-82-2
貞照寺 鐘楼堂 晩松園 客間棟
■紹介者コメント
 「金剛山桃光院貞照寺」は、昭和8年、日本初の女優とされる川上貞奴女史が、若い頃から信仰していた不動明王を祀るため発願し、私財を投じて創建された。電力王・福沢桃介が諸処に発電施設を設けた木曽川の中流に位置している。寺の名に桃介の桃と貞奴の貞を取り入れていた。
 本堂は木曾川を見渡すように鉄筋コンクリート造の高床を基壇とし、その上に檜造りで成田山新勝寺を模して建立されている。屋根は入母屋造り、瓦棒銅版葺きで際立った偉容を誇っている。本堂脇に宝物庫があり、鉄筋コンクリート造高床式で、切妻造の屋根を架けている。下部を校倉風とし、内部はガラス天井とするなど近代の材料・技術で伝統様式を再構築した事例となっている。他に仁王門、庫裏、鐘楼堂など8件が登録有形文化財となった。
 女史が昭和21年75才で没した後、一時、荒廃を極めたが、昭和35年、成田山名古屋別院の管理するところとなり「成田山貞照寺」として大修復の上、再建、運営され今日に至っている。境内の玉垣に当時の名優の名が刻まれ、現在も芸能の寺として、時折、芸能人が訪れている。
 貞照寺を建立した同じ時期、女史は、現在、国道によって分断されているが、門前に別荘を建設している。一部二階建、数寄屋造りのモダンな建物群である。建坪150坪で、25もの部屋数を持っている。芝を張った庭に面して、玄関・広間棟・客間棟を雁行させ、さながら昭和の桂離宮のごとき趣がある。室内も各部屋ごとに細部まで意匠が凝らされ、目を見張るものがある。晩松園として登録有形文化財となっているが、貞照寺に「萬松園」の額があり、こちらの名称が正しいのかもしれない。現在、サクラヒルズ川上別荘として結婚式場の管理のもとにあるが、一般公開は今春(平成20)より実施され、ボランティアによる説明も受けられる。各務原市教育委員会の文化財課が、受付窓口となっている。
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 「北野山真福寺寶生院」(俗名「大須観音」) 保浦文夫/㈱ヤスウラ設計
正面2008 年2月3 日の節分会。筆者も参加
本殿 大須の街の風景
■発掘者コメント
 本堂の左に普門殿、右に紫雲殿と対に中国の城郭風の外観。国宝である古事記写本などの寺宝を、1万数千部収蔵する大須文庫は有名である。
 元亨4年(1324)に後醍醐天皇が大須郷(羽島市桑原町大須)に北野天満宮を開山。元弘3年(1333)に同社の別寺として能信上人が開山、後醍醐天皇より寺号「北野山真福寺寶生院」を賜り、伊勢神宮で観世音菩薩を御本尊に仰ぐ。
 慶長17年(1612)に徳川家康の命令で名古屋城が築かれ、碁盤割りの城下町を形成、世にいう「清洲越し」で京町・袋町・長者町など67町が移され、60余万石の城下町ができた。城下町の外郭を神社仏閣で埋める戦略的意味で真福寺(大須観音)も犬山城主の成瀬正茂によって現在地に移転された。
 享保15〜元文4年(1730-1739)七代目藩主、宗春の時代に、武士にも芝居や寄席を推奨し、遊郭の開業が大須の賑いとなる。
 明治6年(1873)大須観音に近い北野新地に旭遊郭が生まれ、街は大繁盛する。
 明治25年(1892)3月、宝生座の出火により大須観音本堂、五重塔、仁王門、庫裡や町屋等134棟を類焼大火となる。
 昭和20年3月第二次世界大戦の空襲と2度の焼失を被り、昭和45年(1970)に東向き伽藍を南に向きを変え本堂が落成し、戦争の傷跡から復旧、庶民の間で観音信仰が高まり、四国霊場と似た尾張三十三観音を創設、第一番札所となる。
 大須観音は昔の門前町の名残りをとどめ、下町情緒と伝統文化の継承や“コスプレ・サミット”など新たな若者文化創造など、地域のあらゆる人々と価値観を共有した多くの年中行事は高い評価を受けている。大須観音では今でも奥深い宗教と生活が生きている。


名称:北野山真福寺寶生院
所在地:名古屋市中区大須二- 21 - 47