保存情報第82回
登録有形文化財 柴田家住宅主屋 林廣伸/林廣伸建築事務所

所在地:清須市西枇杷島町辰新田65
登録番号23-0225 /個人住宅につき非公開
修理後正面。一階部分は数度の改変を経ているが、このファサードは初現 ミセ部分内観 下屋軒桁に向かって大梁が延びる
■紹介者コメント
 ある日突然、家主の柴田氏から「自宅を復原修理したい」との連絡を受けた。修理工事において、純然とした個人からの依頼は初めてであったが、「保存」と聞いた以上、逃げるわけにはいかない。登録文化財に登録することを提案し、補助事業として作業を進めることとした。
 早速、調査に取りかかったが、柱傾斜は内法高さで3寸、最大沈下量は東妻壁筋における4寸であった。土台腐朽による沈下に伴い柱傾斜が生じたと推測したが、軸部修理が進んだ後の計測では、土台腐朽による沈下量は約2寸で、多少の圧密沈下を見込んでも当初の計測値と整合しない。その要因は、トオリニワの関係上、桁行方向の足固めが通っていないため、東側妻壁の足下が開いたことにあった。今回修理においては、トオリニワ部分を板張とする計画であったので、床下に根固め材を増設
することとした。
 一方、解体時の調査で、当初、一階正面は西端の戸箱部分を除き、全幅開口で、戸板一枚で仕切られていたことが判明、ミセ部分を低床の応接とする計画では、さすがに復原とはいかず、写真のような柱間装置で納めた。また、一、二階座敷の床とこ面で、それぞれ明治29、38年の墨書が検出された。伝聞の濃尾震災後
の再建が裏付けられるとともに、二階の造作は再建の9年後に行われたことが知られる。
 ところで、柴田家主屋では、大黒柱と正面下屋の軒桁間に大梁を渡し、隅柱間の上屋受桁をこの大梁に架けて通す、いわゆる十字梁とし、ミセ部分を無柱空間としている。尾張地方でよく見られる架構なのだが、筆者の体験では、小牧市指定文化財「岸田家」(文化年間創建:推定)にその萌芽が見られる。これらの体系化は研究
者に委ねるとして、とりあえず「尾張型」と呼んでおこう。 
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 名古屋の近代史を物語る中川運河 尾関利勝/地域計画建築研究所

中川口閘門。奥に中川大橋が見える

橋の高欄①


橋の高欄②

松重閘門(名古屋市指定有形文化財)
所在地:名古屋市中川区・港区 
全長:8.4km 
幅員:36 ~91m(一定ではない) 

建設年代:
1926(大正15)年=起工、1930(昭和5) 年=本線開通
1932(昭和7)年=全線開通 
護岸構造:
主に当初=石積(当初)、
改修=矢板~コンクリート(現在) 
事業手法:
都市計画事業=1924(大正13)年決定
■発掘者のコメント
 名古屋市内には81の河川(平成19年度統計)があるが、この中に中川運河は含まれない。港湾だからだ。運河の最北端、笹島の掘留は内陸部だ、ここは都心近くまで入り込んだ港なのだ。
 中川運河は港湾物資を市内に運ぶ物流動線として1924年に都市計画決定し、1926年起工、1930年本線が開通した。その後、現代まで続く名古屋西南部の基盤産業と物流地帯の土地利用を誘導する基幹的インフラとなった。港とともに名古屋の母なる産業遺産である。パナマ運河に例えられる開削式の閘門運河としては日本最長で延長8.4kmある。 主な施設としては堀川とつなぐ閉鎖中の松重閘門(過去に本稿で取り上げ)、名古屋港から水位調整して運河に船が出入りする中川口閘門の他、本線に14、堀川への運河に3つの橋が架かる。他に沿岸の倉庫やそこに取り付けられた荷揚げ用のクレーンが、今は使われなくなったが、かつての水運の名残を留めている。
 中川運河に架かる橋は架け替えられた物をデザインの高骨アーチが採用された橋桁構造、石積みの橋脚などに昭和初期の歴史を感じることが出来る。中川運河は、近世の運
河でもある堀川(現在は河川)とともに橋の近代遺産の宝庫なのだ。 中川運河は地表面と水面の差が少なく、橋桁が低いため、ここを通る船の背は低いのが堀川との違いである。セーヌ川のバトームシューのような照明付き観光船で橋巡りが出来たら、名古屋のナイトツアーとして楽しいだろう。