いろは雑工記 第2回
規矩準縄
—私の見た日本建築の世界—
望月義伸
㈲伊藤平左ェ門建築事務所 名古屋事務所 所長
大工棟梁家と秘伝書
 日本建築が今日あるのも、絶えず技と心が伝承されてきたからです。伝承をになったのは諸職の職人とそれを統率した技術者達です。その中でも、大きな役割をはたしてきたものに大工棟梁家の技術集団があります。
 古代には国家体制の中で秦氏などの建築に秀いでた氏族がいました。中世には武士の氏神信仰を背景に、地方での建築も盛んとなり、各地で工匠が活躍します。近世には、幕府、藩、有名寺社などに専属の技術集団が確立します。例えば、禁裏棟梁の木子家、作事方大棟梁に中井家や甲良家、平内家などがよく知られています。ここ尾張では熱田大工の沢田家、鈴木家や竹中工務店のルーツでもある竹中家、伊藤家といった、いくつかの大工棟梁家が輩出されます。
 著名な大棟梁の下には、配下の大工をはじめ各職の職人集団がありました。大工棟梁家は、堂宮大工のイメージが強いのですが、当時の寺社建築は公共建築の性格があり、現在のゼネコンと同じ機能を有した集団でもありました。
 あらためて伊藤平左衛門家を紹介すると、初代は織田秀信の側近の後、名古屋城築城にも従事したと伝えられ、尾張藩の作事方として寺社建築などを代々手がけてきました。明治期には9代平左衛門による東本願寺御影堂、阿弥陀堂をはじめ、見付小学校、旧愛知県庁、三重県庁(現在、明治村)などの建築があります。私の師の伊藤先生は12代目にあたります。江戸時代初期から12代であるから1代あたりが長命であったことが分かります。
 そのことは単に長子が棟梁職を継ぐのではなく、その一族の中で(一族にいない場合は養子を取ってでも)技能があり身体能力も秀いでた人が名跡を継げることを意味しています。また大工棟梁は、個人的な資質が卓越していることはいうまでもなく、代表として率いる技術集団のレベルが高くなければ大棟梁とは呼ばれません。大工棟梁家を継続していくことは、なかなか大変なことだと思います。日本建築を見るとき、建築にどの棟梁が携ったのかも大切な要素といえます。
 余談ですが、作事方は、幕府や藩よりの注文で建築に従事しますが、年間にいくらかの禄を拝領します。この禄の目的として出兵などの有事には工作の役が課せられました。伊藤家も幕末の長州征伐のときには9代目平左衛門が長槍を持って出かけ、兵舎を建てたそうです。
 大工棟梁家では、各時代に活躍した大工棟梁が残し、また継承してきた図面や工事の記録、手法や作法などの記述を伝えてきました。知られているものに『愚子見記』※1や『匠明』※2などがあります。それらは大切にされて、中には何々流とかを称して、秘伝書として伝えられることもありました。
 江戸時代になって、それらの書の一部は雛形本として出版されて普及するようになりました。そのひとつの『匠家極秘傳』※写真1には尺の解説から始まり、風水、木割、規矩、絵様といった内容が含まれています。
木割の心得
 前話が長くなりましたが、私の入社した頃に話を戻します。設計の実務を始めて、基本設計の段階で渡されたのが『匠明』※写真2です。平内家に伝わった桃山時代の木割書を収録し、『匠明五巻考』として伊藤先生が解説を、伊藤先生の師である太田博太郎先生が監修したものです。
 木割は建物の種類によって、その規模に応じて柱割から各部の寸法までを比例(プロポーション)によって表したものです。木割を会得することで建物を自動設計することも可能です。木割ソフトを作成すれば日本建築の設計はすぐにも出来てしまうのです。しかし実際には木割書通りに図面を書こうとすると、現実的にはとんでもない建物になってしまいます。たまに、社寺建築に不慣れな方が市販の雛形本を参考に、表面的な木割の理解で設計してできた建物を見て、がっくりすることがあります。日本建築の意匠や木割を建物に取り入れようとするには、よく木割や規矩を理解した上で、造形感覚を磨いて設計することが必修でしょう。
 では、参考までに木割を使う上で、心得おくことには
① 木割の時代経過-古代から近代まで、建物の比例関係は時代と共に変化していった。各時代の木割を知ることで古建築の年代を判断することも可能である。設計の立場からは、どのような木割をすることにより、どんな意匠になるかを理解しておく。
② 木割書の成立と基準-木割書が成立するのは、地方でも分業化による建築生産が高まった室町時代末から江戸時代にけてである。『匠明』の太田先生の序文にあるように、木割の成立は大工職が世襲されるようになり、必ずしも能力の高くない者もその任に当たらなければならなくなった時代に秘伝書として成立する。したがって、木割は、教科書的な性格があり、これにより、ある水準までは達することが出来て、著しい失敗をしなくてよくなる。しかし、これは最高基準ではなく、単に合格基準を示した教科書といえる。したがって、木割はあくまでも建築の基礎知識であり必修科目であるが、『匠明』の奥書にあるように、五意達者※3にして、常に怠ることなく過去の例をよく見て良否を判断することが大切である。木割を会得した上で、それに固守することなく、創意工夫してこそ高いレベルに達することが出来る。 木割をこのような基礎知識として見ると、大変素晴らしい知恵の結晶です。とはいえ、私は日々の設計では、木割から外れすぎで失敗したり、木割通りにして失敗したりの試行錯誤。会得するにはほど遠
写真1 『匠家極秘傳』 広丹晨父著、享和12年(1727) 写真2 『匠明』 監修 太田博太郎、校訂解説 伊藤要太郎、鹿島
出版
写真3 規矩図の例
規矩の術
 木割をはじめ、諸条件をクリアして建物の基本形が決まると、次は規矩の出番です。「規矩」の規はコンパス、矩は曲尺(さしがね)を示し、木割などにより定めた形を墨付する技法です。規矩は中国より伝わり、日本ではコンパスの機能を併せ持つ曲尺が発達したことから、曲尺使いとも呼ばれます。規矩により日本建築に重要な軒廻りや屋根の規矩図※写真3を作り、これにより実施する細部を定めます。日本建築の設計図には不可欠なものです。
 規矩図の目的には、この図を基に現寸図を書き、それにより現寸の型板を作成し、正確に加工することがあります。この現寸図の作成により、詳細の納まりの決定から、作業手順や工程の確認、また、職人さんの考えや技量も知ることが出来ます。
 実務の最初は、基本的な軒廻り図を書くことからです。古本屋にて参考書※4を求めて分からないなりに何とか図化しました。規矩は立体幾何学のようなもので、結果の正しい墨付の答えはひとつでも、解き方は幾つかあるなど、図学と数学的な面があります。初めは難解でしたが、次第に分かってくると面白くなり、今では私のライフワークの一つになっています。
 ある程度に規矩が出来るようになった頃、師の伊藤先生より『匠家矩術要解』の解説本※5を渡されました。これは『匠明』を残した平内家10代の平内延臣が著したもので、今でいうと現場用の矩術ハンディブックです。延臣は和算の大家で幕府の大棟梁でもありました。それまでの規矩術を勾・股・胘の三角形により正確に解明しました。規矩術にとって革命的な人といえます。『矩術要解』は図や文が簡素で、要点のみを表したものですが、その内容は奥深く優れたものです。現代に伝わる規矩の基本を確立した書と言えます。
 規矩を理解して、それを使えるようになるには、割付や墨付の方法の結果だけを憶えていては間違いをすることがあり、不十分です。なぜそうなるのかを、自分なりに分かる方法で証明して理解しておく必要があります。なにごとも、基本的なことは、その成り立ちを理解しておかなければ発展はありません。また、中国の故事から「規矩準縄※6を正す」という言葉があり、物事や行動の規準、手本を正しくすることを言います。この言葉の示す通り、建築もきちんと正しい基準から始めなくてはいけないようです。
※1 『愚子見記』
   法隆寺に伝わる書、全九巻 大工棟梁 平政隆が書き記した万覚書き 天和3年(1683)筆写
※2 『匠明』
   幕府棟梁の平内家に伝わる桃山時代の木割書 五巻より成り、慶長13年(1608)の奥書がある。
※3 五意達者
   『匠明』の奥書に、五意、すなわち、式尺の墨𨦈(木割)、算合(計算や積算)、手仕事(工作)、絵用、彫物に精通していること。
※4 各種の規矩書が出版されているが、参考としたのは、
   『新版 実用規矩術』佐久間田之助著、槇出版。
※5 『匠家矩術要解解説』
   『匠家矩術要解』平内延臣著、天保4年(1823)を、木工技術・曲尺の使い方の書として解説したもの。伊藤平左エ門著。
※6 規矩準縄
   準は平をはかる水盛。縄は直をはかる墨縄を示す。
もちづき・よしのぶ
(有)伊藤平左ェ門建築事務所名古屋事務所所長。1956年滋賀県甲賀市生まれ。中部大学工学部建築学科卒。伊藤平左ェ門建築事務所に入社。現在に至る。
社寺建築、数奇屋建築、文化財保存施設などの設計・監理を行う。『社寺建築の銅板屋根』(理工学社)、『近江甲賀の前挽鋸』(甲南町教育委員会編)、「栗林公園掬月亭保存修理報告書」(香川県)他の共著。古い建物の再生活動、木挽、茅葺の修業中。