第3回 
木割の話
「塔」の種類と木割
河田克博
(名古屋工業大学大学院教授)
 「塔」は元来、仏舎利、すなわち仏陀の分骨を土中に埋め、それを安置するべく柱のような碑を立てる形式であった。これを、インドから発した仏教の原語サンスクリット語では「スツーパ」、それが中国に入り「卒塔婆」と漢字に変わり、日本に入ると単に「塔」と呼ぶようになった。この変遷過程で仏塔の形式も変化していき、我が国では「スツーパ」を塔頂の相輪と化し、それを載せる木造建築の部分が重視され一般に高層建築として発達していった。
 しかしながら我が国では「塔」と称する形式が実に多様であり、木割書にはさまざまな形態がみられ、大きくは「層塔」と「宝塔類」1)に大別される。今回は、主として寺院に建てられ、平安時代の神仏習合以降は神社にも建てられた「塔」の種類と木割について述べる。
「層塔」の種類
 一般に三重塔・五重塔などと呼んでいるのが「層塔」で、ほぼ建築形式的な名称で、木割書には、次のような名称がみられる。
 〈名称〉三重塔、五重塔、六重塔、七重塔、九重塔、十一重塔、十三重塔、龍塔
 このうち六重塔は、『匠明』(東京大学蔵)のみにメモ書程度に記されるもので特殊であり、基本的に層塔の屋根の数は奇数である。龍塔は、五重塔の形式を基本としながら、初重・三重・五重の軒の組物を三手先にし、二重・四重の軒を出組(=一手先)と浅くする。結果的に軒先線を結ぶと二重・四重が内側に入り波打った線となる。あたかも龍が天に昇るようにみえるから龍塔と名付けられたのかもしれない。実例は奈良の薬師寺東塔といっているが、この塔は厳密には三重塔各重裳階付きであり、軒先線は確かに波打っている。
①木割書における五重塔の逓減 ②「三重塔」の木割 ③「九輪」の木
「層塔」の木割
 層塔の各層平面は、すべて3間四方の正方形で、中の間+両脇の間=総間、上層にいくに連れて少しずつ縮小していくが、これを逓減という。この逓減の手法は、設計者がいろいろと工夫・研鑽したようで、流派などでいくつかの手法に分かれる。ただ逓減の説明は、いずれも本繁垂木2)を前提とした垂木間隔数、すなわち「枝数」で示すのは共通である。その逓減の手法を代表的な木割書の五重塔でみると①、大きくは3種類あることがわかる3)。四天王寺流と江戸建仁寺流で流派が異なっても、基本的な逓減が同じであることは興味深い。また何れも、初重から三重にかけての逓減よりも三重から五重までの逓減を大きくし、途中が膨らんだ安定した形状にみえる「中ふくら」が良いといっており、建ち上がった五重塔の形状に意を払っていることがわかる。しかし、『匠明』の裏面書きに五重塔の逓減枝数のみが記されており、この内容は小普請方系本にみられる初重から五重まで均等に3枝ずつ逓減させる「三枝落し」となっている。生産効率からすれば逓減手法は均質・単純なほうが良いわけで、江戸時代末期に急いで再建された日光五重塔は「三枝落し」で設計されている。設計の理想と現実の両方を見据えた結果であろうか。なお加賀建仁寺流では、結果的に「二枝落し」となっており、他に比べて逓減が少なく、現代建築に近いスマートな姿をみせている。
 なお層塔の木割は三重塔で基本を詳述した後②4)、五重塔以上を簡潔に説明するのが一般である。そして、本来のスツーパに該当する相輪部分は、通常「九輪」の木割と称して特に詳細に説明する③。
 設計者は、仏塔の本来の意味を充分に理解して設計しているのである。
「宝塔類」の種類
 ほぼ建築形式と一致する層塔の名称に対して、宝塔類の名称は多様で理解しにくい。
 〈名称〉多宝塔、大塔、宝塔、涌亀塔(瑜璣塔、鋳亀塔、亀塔)、華厳塔、小塔、阿含塔、輪塔(宗輪塔、林塔)、舎利塔、宝筐塔(宝篋塔、宝久塔)、法捄塔、須弥塔、金剛塔、惣輪塔(相輪塔、聚林塔、双林塔)、九輪塔、五輪塔、春見塔、財塔など多数あり、これらの名称を見ただけで建築形式がわかる大工はまず居ないだろうから、これらのほとんどの木割は姿図とともに説明される。ただし、これらのうち、多宝塔④・大塔・宝塔の3形式だけは建築形式として普遍的に定着した名称なので、文字のみで説明されることも多い。しかし鋳亀塔⑤のように、亀が宝塔を背負っている姿がおよそ想像できたとしても、やはり姿図が併記されているほうがわかりやすいであろう。「塔」に限らず、木割書は、後世に記されるものほど姿図や平面図を併記するのが多くなる。文字情報よりも視覚情報のほうが情報量が多いのは現代と同じである。
④「多宝塔」の木割 ⑤「鋳亀塔」の木割 ⑥「ケコントウ」の木割
「宝塔類」の木割
 このように多様・複雑な宝塔類の木割を解読するのは、並大抵の知識では困難である。少々特殊であるが「華厳塔」の木割について触れてみよう。
 「華厳塔」の木割は、文字情報としては『建仁寺派家伝書』-「宝塔類」で知られていた。それによれば、華厳塔は、唐様2)の三層塔であること、したがって各平面の大きさを、詰組とした組物1ユニット(これを1あいだ4 4 4といい、1αと記号化した)の倍数で説明する。たとえば初重の大間(=中央間)を3α、脇間・端間をそれぞれ2αとしている。しかし高さに関しては、入側柱5)の足元の壇上から、上方の台輪上までを、初重の土居間の3.5倍にせよ、という。土居は軒の地垂木の支点になる部材で一般に「出桁」と呼ぶが、ここでは初重の組物が出組となっており一手出ているから、外側の柱総間(=11α)にこの分を加えて初めて土居間長さがわかるわけである。しかしながら、これらの文字情報だけでは木割図作成の決定打が欠けていた。第一、初重の広さが通常の層塔に比べ大きすぎるし、果たして塔の形状を成すものであろうか。ところが別に「ケコントウ」と記す姿図を示す史料⑥があることがわかり、その他の組物や相輪の木割詳細を示す内容などを参考にして、現代的な実用に即して作成した図が⑦である。案の定、初重を「堂」として使用しながらも、全体としては「塔」の形状をみせるものとなった。
 できるだけ多くの木割書を検討・考察していけば、必ず実用に即した設計図ができると信じているものの、完結に至るまでには少々の苦労は付き物ではある。

1) 江戸建仁寺流系本の基幹本『建仁寺派家伝書』(全14 冊、東京都立中央図書館蔵)では、明確に「層塔」と「宝塔類」と類別している。
2) 前稿(木割の話-第2回)参照。
3) これら以外の木割書には、また別の逓減手法を示したものもある。
4) 図版②~⑦は、すべて拙編著『日本建築古典叢書3 近世建築書-堂宮雛形2 建仁寺流』(大龍堂書店、1988 年)に所収。
5) 外側より1 つ内側周りの柱。
かわた・かつひろ| 1952 年生まれ。
1977 年名古屋工業大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了。
1990 年同学博士後期課程修了。工学博士。名古屋工業大学助教授を経て、2005 年より現職。
専門は建築史・都市史。
著書に『日本建築古典叢書3 近世建築書−堂宮雛形2 建仁寺流』(大龍堂書店)、ビュジアル版『城の日本史』(角川書店)など
⑦「華厳塔」の平面図・断面図・立面図