新連載  いろは雑工記
絵方ことはじめ
—私の見た日本建築の世界—
望月義伸
㈲伊藤平左ェ門建築事務所 名古屋事務所 所長
 人生には、さまざまな出会いがあります。建築に携わって、喜ばしいことは、多くの人と縁が出来て、共に創ることです。
 今回の連載も縁あって紹介いただけた方から、読者の皆様へとつながったことに感謝します。まずい文章しか書けませんのに勝手を申しますが、これもなにかの御縁とあきらめてお付き合いください。
 本来なら、日本建築に高名な方々がお見えのなか、大変恐縮しておりますが、日本建築に興味をお持ちの方、また、日本建築をめざす若い方に少しでも参考になればという思いで、初めて日本建築に触れた初心の頃の話をさせて頂きます。
日本建築との出会い
 今も日本建築の仕事を続けられるのは、初心の頃によい出会いがあり、よい経験があったからと思います。大学卒業近くになっても、就職が決まらずにぶらぶらしていた私に、指導教授だった伊藤平左ェ門※1先生から名古屋の事務所に来ないかと声がかかり、「暇な時は勉強していればよいから」と言われ、折角なので1年くらいは勉強にと今の事務所へと入社しました。
 そんな軽い気持ちでの就職でした。ところが、入社して初めて仕事の打合せに同行したのが奈良の薬師寺でした。当時の薬師寺は伽藍再建の最中。いきなり白鳳建築の再現の現場を目のあたりにして感動しました。
 続いて1 ヵ月もしないうちに、九州の宗像大社辺津宮の本殿を文化財申請するための実測がありました。同行したのが当時、東京事務所へ清水建設より出向して「継手・仕口」を研究していた木内修氏でした。現在は国の重要文化財に指定されている建物の実測を通して、よい建物を測って覚えることが出来ました。そんなことで、当初の軽い気持ちはすっかり飛んでしまい、それ以後、この世界にどっぷりとつかってしまったのです。今思えば、それからが幸運にも私の日本建築への純粋培養の始まりでした。
日本建築の言語
 師匠であり所長でもあった伊藤先生より最初に覚えるように渡されたものが、『日本建築辭彙』※(2 写真1・写真2)です。まずは言葉(用語)から。旧約聖書に記されているバベルの塔では、人々が天にも届く塔を建てようとした時、神は怒り、人々の言語を混乱させ、人々は各地に散ってしまった。この話にもあるように、協力して技術を押し進めようとするとき、共通の言葉はもっとも大切な要素です。日本の歴史も、戦乱と復興を繰り返す。疲弊した中であっても、人々が力を合せて新しい時代を建設しようとしたとき、共通のシステムが必要となり、それが言葉として残ったのでしょう。日本建築の言葉も古代、中世、近世と種々な言葉が発生し、そして淘汰され用語として定着したのでしょう。今も、どの地方にいっても堂宮大工なら、例えば軒付材の「木負」や「飛檐棰」※3と言えばどの部材か分かります。また、近世の雛形本も用語の理解が可能です。
 どんな職業でも同じだと思いますが、専門の共通する言葉を理解しなければプロとは言えません。とはいえ、用語を記憶し、それを身につけるのはすぐには出来ません。部材名を覚えるのと同時に作業の用語(例えば木材の加工法で「木殺し」※4も覚えなければいけません。また、「いぼた」※5は知っているかとか「久米蔵」はどうか?と知らない商品名も出題されます。用語も実務として実際に使って、触れて覚えることが大切です。実務に必要な言葉をしっかりと覚えるには五年くらいかかるようです。
写真1『日本建築辭彙』 参考 『日本建築辭彙』「い・ゐ」から始まっている 写真2 組物図の習作(大正時代)
日本建築と実測
 日本建築の勉強をするための基本に古建築の見学があります。まずは、良いものを見て触れて感じることが大切です。骨董の目利き修行の第一歩は名品を見ることから始まるそうですが、まったく同じことだと思います。
 私は、滋賀出身で古都に近く、比較的古建築を見て育ちました。しかし、設計をする立場となって古建築を見ると、それまでのただ漠然と見ていたものとは違って見えてきます。休日は、古建築を出来るだけ見て廻るようにしました。やはり、名建築と呼ばれるものは、それだけの良さがあり、その力量やセンスの良さに、ただ脱帽することもあります。これは日本建築に限ったことではないと思います。
 この「見る」ということから更に深く知ることが出来るのに実測があります。伊藤平左ェ門家にも古い資料が残されていますが、いわゆる設計図以外に、各地の建物を見聞し、その形や寸法を丹念に墨で記録したものが多く残されています。建築の造形を知る上では、ただ見るだけでなく、正確にその寸法や形状を測って記すことが大切です。また設計として表現するには、造形の正確さとして寸法を具体的に記入することが必要です。その基礎となる寸法感覚を養うのにこの実測は有効です。建物の見学にもメジャーを持って、目測寸法と実測寸法を確かめたりします。また、木構造やその施工を知るにも実測はかなり有効です。特に小屋裏実測は大切ですが、煤で黒くなり、夏は汗だく、冬は凍えての大変な作業です。実測のときの注意点としては、何も考えずに、ひたすら寸法を取り、形を写すことが肝心です。先入観で実測をすると間違いをしやすいのです。古い建物は建てられた時期も工法も考え方も今とは違います。現代の考えや工法より推測することは、正しくその建物を理解することを妨げ、新しい発見を見逃すことにもなるからです。
解体修理
 古くより、日本の木造建築は新築するばかりでなく、修理をして大切に永く使うことをしてきました。近頃はリフォームが見直されていますが、日本建築の場合は伝統的に建物の修理がたえず行われてきました。その代表例が千年以上も建っている法隆寺の建物です。堂宮大工は建物の修理を修行の大切な機会として携わってきました。解体によって、細部に至るまで、その形や材料、工法、そして、それらの長所欠点を直接見ることが出来ます。解体修理の実測や調査は日本建築に携わる人にとって、またとない修業の場です。調査でそれまでの修理経過から創建当時の姿までも分かることもあります。
 それらを記録し、より日本建築のレベルを上げてゆくために修理報告書が作成されます。余談ですが、国の重要文化財の報告書は部数が少なく、市販されません。何故か分かりませんが残念なことです。堂宮大工の名棟梁と呼ばれる人は、仕事の良し悪しをはっきり言ってくれます。新築だけでなく、この解体修理の経験があってこそ、そのような判断ができるのでしょう。
『ウィトルウィウス建築書』と棟梁
 また、伊藤先生より『ウィトルウィウス建築書』※6に語られている建築家の話がありました。そこに語られている建築家の領域はまさにスーパースターです。レオナルド・ダ・ヴィンチほどの能力がないと到底、太刀打ちできないと思って話を聞いていました。書の内容はよく分かりませんでしたが、建築設計士の有名人を建築家としてイメージしていた私の頭をぶっ壊すには十分な話であったことは確かでした。このやや現実離れした書を建築理論書とも分からず読み終えた頃に、堂宮大工に関する話を伺いました。それは「堂宮大工は、『墨付』『そろばん』『仕事』『絵様』『彫刻』が出来ないと棟梁とは言えないんだよ」ということです。「墨付」とは木割や規矩に精通していること、「そろばん」とは数学的な能力や建物の見積やコスト計算が出来ること、「仕事」とは道具を使っての技術があること、「絵様」とは絵心が(芸術的要素)があり、図や線が描けること、「彫刻」とは彫物ができることを言う。これは先生の言葉を正確に記録したものではなく、私の記憶にある表現や解釈と理解ください。
 この命題は今後の大きな指標となりました。私も日本建築をやるなら、なんとかこれらの資質を身につけたいと考えるようなりました。しかし、これらを身につけることは大変な修業であることは初心者の私にも良く分かりました。また、ウィトルウィウスが書く建築家像と日本の大工棟梁とが合致した瞬間でもありました。
 そこで先生に「棟梁の下で図面を描く人を昔は何と呼んでいたのですか」と質問をすると「絵方(絵図方)だよ」と教えてもらいました。伊藤家でもその役割の人が働いていたそうです。まず、私は絵方をめざすことにしました。
※1 伊藤平左エ門(12代目)。旧名 要太郎。大正11年生 工学博士
昭和35年 設計事務所設立
昭和55年 堂宮大工 十二世 伊藤平左ェ門 襲名
元東京芸術大学非常勤講師 中部大学名誉教授
作品:出雲大社拝殿、高野山東京別院本堂、他多数
著作:『匠明五巻参考』(鹿島研究所出版)、『明治の再堂造営』(東本願寺)他
平成16年 逝去(81才)

※2『 日本建築辭彙』
明治36年6月1日、丸善株式会社発行。著者は東京帝国大学と東京美術大学で教鞭をとった中村達太郎(1860 ~1942)工学博士によって収集、編纂された日本建築の辞書。序文に「建築師は上戸(芸術)と下戸(算数)とを兼ね備えて居らねばならぬ。また、この本は学者の見るべき高尚のものでなく技術家のために書いた」と記されている。いろは順に建築用語(単語)を簡便に著者の見識をもって記されている。

※3「木負」 軒の先端部にある横材。
   「地棰」 棰木が二段になる場合の桁側の棰木。

※4「 木殺し」 化粧材を接合する際に木の表面を槌で叩くことにより、隙間をなくす手法

※5「いぼた」 敷居すべりに用いる天然の蠟?
   「久米蔵」 名古屋市中村区にあった久米蔵商店で販売されていた黒い粉末状の塗料材料

※6『 ウィトルウィウス建築書』
ローマ時代にウィトルウィウスによって書かれた建築書。十書より成る。建築家の森田慶一(1895 ~1983)によって翻訳される。
もちづき・よしのぶ
(有)伊藤平左ェ門建築事務所名古屋事務所所長。1956年滋賀県甲賀市生まれ。中部大学工学部建築学科卒。伊藤平左ェ門建築事務所に入社。現在に至る。
社寺建築、数奇屋建築、文化財保存施設などの設計・監理を行う。『社寺建築の銅板屋根』(理工学社)、『近江甲賀の前挽鋸』(甲南町教育委員会編)、「栗林公園掬月亭保存修理報告書」(香川県)他の共著。古い建物の再生活動、木挽、茅葺の修業中。