伊勢神宮の文化史 第6回
遷宮に向かって
〜太一のシンボルマーク〜

矢野 憲一(五十鈴塾塾長)
 式年遷宮にはたくさんの宮大工や作業員が従事します。小工が98,500人、萱工が16,800人、銅工が5,600人、作業員が11万4,000人、合わせて約10年間に従事する延べ人員が24万4,500人と、前回遷宮の時には発表されました。すごい数です。
 その中の神宮式年造営庁造営課に所属する人の作業服は一年を通じて白装束で、白い帽子やヘルメットの正面には「太一」という徽章がついています。
 昔は造営にかかわる人の法被や檜笠などにも「大一」や「太一」の印がつき、神宮の造営のシンボルマークとされてきました。
 「太一」は、神饌や遷宮用材を運搬する際の幟や、伊雑宮(いぞうぐう)のお田植え神事の団扇にも書かれ、昔から広く神宮のマークとされてきたのですが、なぜ「太一」がシンボルマークなのでしょうか。
 これまで太一と大一は混合し、明治4年の神宮改正以前は主として「太一」と記され、大神宮の「大」の字も太でした。それが明治5年に太政官布達により「大」と改められました。
 中国の古い文献では「大」は、人間の正面の形で、おおきい、さかん、すぐれることを意味します。「太」は、ふとい、おおきい、物のはじめ、おおもと、高い尊称に用い、大も太も区別なく用いていましたが、大の上に頭を示す〇を加えて天という字ができ、太の点を上につけても天になり、「大一」も天の意になるのです。
 古代中国には「太一神」があり、天と地のすべての最高神とされていました。『荘子』には「太一は万有を包含する大道で、天地創造の混沌たる元気をいう」とあり、『礼記』には、「天地の本なり」としている。また天之尊神、北極星、天帝とされ、「太一陰陽五行」の思想が生じるが、おそらく奈良時代にこの中国の思想が入ってきた時、これはわが国の天照大神と同じだと感じ、「太一」を神宮の印としたのでしょう。
 これは明治22年の第57回式年遷宮から正式に造営のシンボルマークと制定されましたが、「太一」は外来思想だとの意見もあり、明治以降は「大一」にされていたのを、今回からまた古くからの由緒を大事にし「太一」を用いることにしたようです。
 造営庁職員は「天下に一つの大事な仕事をさせていただいています」と作業着やヘルメットのマークを誇りにし、安全第一、毎日作業にかかる前に全員がお湯で身を清めて朝拝し、精進潔斎して今日も作業に励んでいます。
山田工作場の貯水池 製材を待つご用材 山田工作場にて
御用材の水中乾燥
 伊勢市は、2006年と2007年の春から夏、「お木曳行事」で活気にあふれました。
 現在では木曾山で伐採した10,000本ものヒノキのすべてはトラックで陸送しますが、重要な部分に用いる御用材は、昔のままに、内宮は五十鈴川を川曳き(かわびき)し、外宮の分は陸曳(おかびき)といって「お木曳車」で町の中を曳きます。これに奉仕するのは旧神領民という神宮のお膝元に生活する10万人余で、江戸時代には税もかからず検地もされない特典がありました。その代わり20年に一度、お木曳と白石持ちの奉仕が課せられていました。これを苦役と考えずに、「神領に住むわれわれだけの特権だ」と誇りをもって、どうせやるなら楽しくやろうと次第にお祭りにまで高めていったのがこの行事です。
 この感動を広く全国の人にも知っていただきたいと、1966年から「一日神領民」という制度ができて、奉曳団本部が中心になり神社本庁を通じて各県の神社庁の団体と推薦団体で募集したところ、北海道から沖縄まで、76,600人が参加しました。
 お木曳で曳かれた木は、外宮域内の山田工作場の貯水池に浸けられます。普通に考えると木材はよく乾燥したものでないと狂いや割れを生じ、腐敗もしやすいだろうに、なぜわざわざ水中に浸けるのだろうと不思議に思い、営繕部に尋ねました。
 「木の油気(あく)を抜いて乾燥させるのだ」といい、これを「水中乾燥」と言うらしいのですが、なぜ水中で乾燥させるのか素人には原理がどうにも分かりません。
 昔から、製材するまで水に入れて貯蔵するのは、長い経験からの知恵でしょうが、伐られたばかりの木は樹脂固有の新鮮な美しい色をしています。それが大気中に放置しておくと酸素と光の作用を受けて材面が青黒くなってきます。しかしこれは表面に近いわずかな部分だけで、そこを鉋で削れば内側は新鮮な色です。これは樹液が関係するのでしょう。
 昔から木を伐る時期は冬がいいとされています。冬は樹液が少ないから腐りにくいのだろうし、雪を利用して山出し運搬の利点もありました。そして陸上を運んだ木よりも筏(いかだ)で流した木の方が乾燥しやすいと民俗の知恵は知っていたようです。原木を水に浸けると樹液(アク)が水と入れ替わり外に出ます。樹液より水の方が乾燥が早いため、用材になったとき収縮率が低く、ヒビ割れを防止する効果があるという原理だろうかと、なんだか分かった気分になりました。
 水は淡水が良く、木材は全部が水中に没するようにしておかねばなりません。貯水池の深さは約2m、長さ570m、4つに区分され、どの木がどこに入っているか容易に分かるようにしてあり、常にポンプで浸水状況を調整しつつ、2、3年間、水中乾燥させた後、自然乾燥させるためにトロッコで慎重に小屋へ運んでいます。現在は高周波による方法もありますが設備が大変でもあり、昔ながらのこうした方法によっているそうです。
御正殿の堅魚木を上げる(内宮) 内宮の上棟祭(1992 年3 月) 内宮 正殿
 何しろ一抱え以上の真っ直ぐな最高級の木曽ヒノキが芳香を放ち、何百本も整然と乾燥小屋に並ぶのは壮観です。私はしばしば見ているのでさほどに思いませんが、木材の専門家ほどびっくりします。一本一本のご用材には番号が記されています。それを「各殿舎丈尺帳」により、効率よく無駄なく墨掛けして製材にかけるのです。
 原木で買い付けるため、良い木だと思って購入しても、腐りがあったり、捻じっていたりすることがあります。主任技師は、「人を見るのも木を見るのも同じだよ」と言います。これは良いと思っても根性が曲がっているのもあり、伐ってみないと分からぬそうです。
 元から末まで同じ寸法の長い丸太を原木から取るのだから大変です。戦前は贅沢に「一材一木」といって一本の木から最も良い一つの部分をとるだけでした。今では夢のような話です。一材からできるだけ多く、無駄なく、柱も板も垂木も、正宮のも別宮のも採れるだけとるから、墨掛けは慎重でとても苦労します。一般の建売住宅ならシラタの腐りやすい部分もお構いなしでしょうが、ここではすべて除いて製材します。曲尺と墨壺を巧みに使い、直径1mもの木口と格闘です。
 前回の勝田主任技師は3度目のご奉仕、円熟の技でした。これに使う一度の動作で直線がピンと引ける「墨壺」はなんて便利な道具でしょうか。素人が見るとただただ感心するばかり。
 墨打ちが済むと次は真竹を割った墨差しを用いて、この部品はどこに使うのかを記し、乾燥小屋へトロッコで運び、反りや歪みの出ないように当て木をし、割れが生じそうなのはカスガイを打ち、整然と積み重ねて収納します。
 こうした運搬や収納も機動力が入って便利な時代になりましたが、神宮の工作場はまだ非近代的で古くからのしきたりを守ってトロッコが主力です。乾燥小屋も木造の板張りで、人と自然の手によって作業がなされています。
 いよいよ今年の春には新殿を建てる御敷地での最初のお祭り「鎮地祭」。一般の地鎮祭がなされ、2012年には立柱祭や上棟祭。そして2013年秋にはクライマックスの遷御となるのです。
 伊勢の町はこうして20年ごとに元気がついて大きな施設やイベントもなされてきたのです。さてあと5年、次の時代はどんな文化が築かれ伝えられるのでしょうか。(了)
やの・けんいち|1938年三重県生まれ。
國學院大學文学部日本史学科卒業、40年間伊勢神宮に奉職し、神宮禰宜。
この間、神宮徴古館農業館学芸員、弘報課長、文化部長、神宮徴古館農業館館長。神宮評議員、伊勢神宮崇敬会評議員。
神道文化賞・樋ロ清之博士記念賞・児童福祉文化奨励賞・日本旅行記賞など受賞。
主な著書に『伊勢神宮』(角川選書)