保存情報第76回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 岸田家住宅 谷  進/泣^クト建築工房


北面外観


玄関土間

所在地 一宮市木曽川町玉ノ井字宮東52
建設年 不詳(大正時代)
■発掘者コメント
 名鉄尾西線( 玉ノ井線) を北西に向かうと終点玉ノ井駅がある。霊泉「玉ノ井」のある賀茂神社はここから徒歩数分の地にあり、岸田家住宅は、この賀茂神社の近くを北東方向から南西方向へ流れる宮田用水・奥村井筋沿いに建つ。
 家業は織物製造業であったとのこと。創業は大正中頃で、当時は綿織物( ネル製品)、その後はこの地方全体が変遷していったように毛織物製造業へと変わっていったという。住宅の建設年は定かではないが大正前半に移築して建てられたものだとのこと。2 階建ての蔵は別棟でなく住居と一体となっているのが珍しい。また、当時から水洗トイレが設けられていたとのこと。室内建具にも手の込んだ細工が施され丁寧な造作への意気込みが感じられる。玄関はタタキ土間が設けられ北から南へ抜けており、酒屋などの商いの造りを思わせるしつらいである。広く大きな建物なので、今日では一部しか使用していないとのことだが、室内建具から庭に至るまで大切に維持されており、家主の愛着が随所に感じられる。壊されてしまっては2 度と再現できない建物であるとの家主の強い想いが伝わり、今後も長く使われることを願うばかりである。
 目の前を流れる宮田用水奥村井筋は江戸時代初期にできた農業用水。現在はフェンスが設けられ一部にコンクリート蓋が掛けられているが、以前は倉敷のような雰囲気で、柳なども植えられていたという。用排水を分離し排水路の暗渠化を進めたためであり、経済性と便利さを求めた故の顛末である。暮らしの景観が強い発言権を得ることが望まれる。
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 岩倉神社舞台(豊田市市指定・有形民俗文化財) 塚本隆典/塚本建築設計事務所


岩倉神社外観


舞台内部


回り舞台の構造
■発掘者コメント
 岩倉神社の廻り舞台の改修工事がほぼ完成した折、施工を担当された建設会社より現場を見学させていただきました。最近の回り舞台の改修は鉄骨によるものが多い中、あえて、木造での復元に挑まれ、見事完成されました。保存に対する真摯な取り組みに教えられるものが多々ありました。
 「新豊田の文化財展」によれば、岩倉神社舞台は、1808 年( 文化5)8 月、農村歌舞伎や地芝居などを行う農村舞台として建築され、間口8 間、奥行5 間、建築面積は40 坪です。もとは茅葺の屋根であったと推定されていますが、1895 年(明治28)に改造が行われ、現在のような瓦葺になりました。舞台内部に楽屋があり、出演する役者の着付けをする控室、芝居に使う小道具を収納する部屋が1階と2階にあります。また、回り舞台となっており、せり引き装置・太夫座といった舞台機能も残されている貴重なものだということです。
 「豊田市郷土資料館だより NO42」によれば、歌舞伎の起源は、17 世紀初めに出雲阿国が京都で始めた歌舞伎踊り(阿国歌舞伎)まで遡るとのこと。江戸時代後期には、農村で爆発的な人気を博し、祭礼恒例の催し物となり、仮設小だけでなく本格的な舞台が争うようにつくられ、単なる小屋的な建物ではなく、岩倉神社の舞台のように本格的な回り舞台を持つものもつくられるようになりました。また、当初は歌舞伎一座を招いての買い芝居であったものが、歌舞伎熱の高まりとともに、地域に万人講が結成され、地元だけでなく近隣地方へ遠征興行を行うようになり、やがて九久平の弁天座や高岡の若林座のような常設の芝居小屋までできるようになりました。明治・大正の隆盛期には歌舞伎だけでなく、股旅ものや人情ものも人気を集めましたが、第二次世界大戦を境に興行も減り、ラジオやテレビの普及により壊滅状態になりました。2001 年度に中金町岩倉神社舞台の大改修を行い、回り舞台の復元を行いました。絶えて久しい豊田の歌舞伎にも復活の兆しが芽生えたことは嬉しい限り、とされています。


所在地 豊田市中金町岩倉763
参照資料 『新豊田の文化財展』(豊田市教育委員会、豊田市郷土資料館)、『豊田市郷土資料館だより』(豊田市郷土資料館)
※執筆にあたり豊田市郷土資料館の天野さんのご協力を頂きました。