第2回
杜からの言霊
黒川紀章先生の思い出と 年輪の話
速水 亨 速水林業
黒川紀章先生の思い出
 2007年11月23日から3日間、兵庫県各地を舞台に日本文化デザイン会議が開かれました。このイベントは日本文化デザインフォーラムが中心となり、年一回、地方の都市で地方自治体の協力を得て開催しています。
 今回は「コウノト リ デザイン」という主題で、遠藤秀平(建築家、神戸大学大学院教授)氏が議長で開催されました。この主題は、兵庫県北部の豊岡市で、国内で一度は絶滅した「コウノトリ」の増殖、野生への放鳥という事業と、阪神淡路大震災から復活した被災地の再生「リデザイン」ということをかけて付けられた造語です。
 建築関係者はご存知の方は多いと思いますが、日本文化デザインフォーラムという組織について簡単に説明します。1979年、米国のスキーリゾートで有名なコロラド州アスペンで毎年開かれている「アスペン国際デザイン会議」のテーマが「日本と日本人」となり、議長に故黒川紀章先生が選出されました。100人にもならんとする日本の様々な分野の文化人が出席し、その時、黒川紀章先生が奔走して資金を集められ、帰国後、国内でも同様の会議を行うために組織をつくられました。黒川先生と同じく愛知県出身の哲学者梅原猛氏を会長に「日本文化デザイン会議」がつくられ、1980年に横浜で開催されました。その後、全国各地で開催されて、組織の名称も「日本文化デザインフォーラム」と変わり、2005年は名古屋・瀬戸でも「コドナ芸術大学開校!」として開催されました。また2004年は三重県で行われようとされましたが、予算の関係もあったのか、ここでは三重県プロジェクトとして、「50年後を見据えた三重のグランドデザイン」を描き出す検討を行いました。  2007年は総括を黒川紀章先生が行う予定でしたが、真に残念なことながら10月に先生の訃報を聞くこととなりました。
 私は、この集まりに三重県のプロジェクトから参加することとなり、森林問題を知る会員がいなかったこともあり、その後の会議に毎年参加しており、東京などで開催される集まりで黒川紀章先生にもお声をかけていただくこともありました。若い頃、林業を経営する若手が集まった席に黒川先生をお呼びしてお話をしていただこうと、当時青山1丁目にあった先生の事務所をお尋ねすると、先生が直々にお出ましになり、ゆっくりと話を聞いていただきました。結局講演は実現しませんでしたが、先生が「速水君、この事務所の大人数を食わしていくのは大変だよ」とおっしゃったことがあまりに素直な言葉で今でも印象に残っています。
 東京都知事選に出られたり、その後、参議院選挙に出られたりして、最後は世の中の注目を建築以外で浴びていましたが、その間にお会いしていると、まじめな話かちょっと世の中をからかっているか判らないような話で周りの者を煙に巻いておられました。
 ちょうど都知事選が終わってしばらく経ったときに集まりがあって、私が遅れていくと先生の前しか席が空いていなく、まずいところだな思って座ると、すぐさま「君は三重県だね。では三重の支部長をやりたまえ!」と突然のお言葉でこちらは訳もわからず、隣の知人がいかにも「ハイ」と言えという顔をするので「了解いたしました」と申し上げると、なんと共生新党の三重県支部長でした。選挙になったら先生の奥様の若尾文子様でもお越しになられたら良いな程度で考えていましたが、参議院選挙になっても結局は梨の礫で終わりました。選挙も先生一流の世の中に対するアンチテーゼの手法だったのかもしれません。
 ロシアのサンクスペテルブルグに建てられるロシアの石油巨大企業のガスプロムの本社ビルの建築プロポーザルの審査員をされていましたが、審査直前に、高さ300mに成らんとする超高層ビルのプランについて「世界遺産である町並みにそぐわない。審査するにいたらない」とコメントを残し、審査員を辞任したときの話を伺い、黒川先生の気骨ある精神を感じたこともありました。
 昨年10月12日にお亡くなりになりましたが、ちょうど私は欧州にいて、インターネットのニュースで知りました。翌日はアムステルダムのゴッホ美術館に行く予定でした。先生の代表作の一つのゴッホ美術館別館の丸い外壁を眺めながら、感慨深い時を過ごしました。学生時代、「あのような水中眼鏡みたいな窓から町を見たらどんなだろうと」思いながら見上げた銀座の中銀カプセルタワービルと同じ人が設計したとはなかなか思えないのですが、黒川紀章先生の時代を見抜く目が作品の多様性かなと素人の建物好きが思いました。
 先生がつくられた「共生」という言葉は、私の林業経営の一つの重要な目標で「自然との共生、地域との共生」という言葉を大事にしています。その言葉をつくられた先生との短いお付き合いでしたが、短期間で人をとりこにする鋭さとウィットに富んだお人柄で、そしていつまでも少年の心を忘れない先生はもっと長く活躍していただきたかったし、東海地方出身の一人の鬼才を失ったと残念に思います。ご冥福をお祈りいたします。


兵庫県豊岡の上空を飛ぶコウノトリ

樹皮の部分に年輪が見える。樹皮と木部の間に形成層ができる。
年輪の話
 さて、木や森林の問題に話を変えます。皆さまは当然なこととして、木に年輪があることは良くご存知だと思います。では樹皮に年輪があることはご存知でしょうか。特にスギやヒノキ、マツなどの針葉樹はしっかりとした年輪が材にありますが、やはり皮にもしっかりと年輪が刻まれます。
 年輪は、形成層(維管束形成層)という篩部(樹皮)と木部(材木)の接するところに外側と内側にでき、片一方は樹皮となり、片一方は材木となります。木は内部の木部に年輪ができて樹皮も年輪ができて成長しますから、成長旺盛な木はどんどんと樹皮が剥がれ落ちます。我々は間伐時の選木では、樹皮の色が黒っぽくて、剥げ落ちず絞まった木を間伐する木として目を付けます。
 年輪の話の基本ですが、年輪は上記のように周囲から太り、決して中からは太ることはありません。つまり中心にいくほど若いときにできていて、外ほど晩年にできた年輪です。強度は晩年にできた晩材部(外側)のほうが強く、できて年数が経ち、すでに水分の移動の役割を終えた心材のほうが耐久性は高いということとなります。
 しばしば切り株の年輪を見れば南の方角がわかるといいますが、残念ながら日本のように木が生える森林が平地ではなく斜面の場合はそうはいきません。多くの場合、谷側が大きめに成長します。つまり木の枝張り(樹冠)は上の木の枝の影となり、山側の枝葉は少なくなり、谷側に多く付きます。それが原因で年輪の成長の違いが出ることがあり、時には木の中に潜在的な応力が残り、製材したときに弓なりに曲がってしまうことがあります。アテ木といいますが、枝張りが極端に一方向に偏ったり、あるいは一時的に成長が止まって年輪の形成が歪になったりするとこのような木ができてしまいます。
 また、年輪が密であるほど良いといわれていますが、決してそうではありません。あまりにも成長が衰えて年輪幅が狭くなると木が硬くなりすぎてもろくなったりします。以前は枝打ちも行われずに育てたために年輪が密な木は早期に枝が枯れて落ちるので節が出にくいといわれていましたが、中心はともかく、年輪はなるべく、20年生ぐらいからは外に向かって同じような幅で刻んできている丸太からとった木材が素直で美しいと感じています。この年輪をつくるのは実はなかなか難しい育林技術なのですが。
 年輪は木が育ってきた歴史です。年輪を見ると木の性格がおおむね理解できます。是非そんな視点で材木の切り口を眺めてみてください。
はやみ・とおる|
1953年三重県生まれ。
1976年 慶応義塾大学法学部政治学科卒業後、家業の林業に従事。
1977〜79年 東京大学農学部林学科研究生、硫黄酸化物の森林生産にあたえる影響を研究、森林経営の機械化を行うと共に国内の林業機械の普及に努める。
現在、1070haの森林を環境管理に基づいて経営を実行し、2000年2月に日本で初めての世界的な環境管理林業の認証であるFSC認証(森林管理協議会)を取得。
2001年第2回朝日新聞「明日への環境賞」森林文化特別賞受賞