伊勢神宮の文化史 第3回
御装束と神宝
矢野 憲一(五十鈴塾塾長)
 式年遷宮というと一般には建物の造営が中心と思われがちですが、神々の御料品の豪華な衣服や調度類が約2500点も平安時代の『儀式帳』の規定のままに、上代の文化と技術を現代に伝えて、当代の最高の美術工芸家により調製されているのです。これを御装束・神宝といいます。
 装束といえば衣服と思われそうですが、そうばかりではありません。古くは「飾り立てること」の意で、衣服や服飾品などを含めた広い意味を持ち、神座や殿舎の舗設品、服飾品、遷御に用いられる品々を総称します。
 神宝とは、神々の御用に供する調度品の総称で、紡績具、武具、武器、馬具、楽器、文具、日用品に大別できます。それは飛鳥や奈良時代の高級なもので、高松塚古墳の壁画や文献も残っている時代であり、当時の文化が現在に引き継がれてつくられていると見てもいいでしょう。
 これらの御料は20年間、御正殿にお納めし、次の遷宮で撤下(お下げ)することになっています。ただし両正宮の神宝に限り、新宮の西宝殿に移されて、さらに20年間保存された後に撤下されます。これは本様といって次の製作の参考資料にするためです。
 昔は写真やコピーや正確な図面もなかったので、この製作にあたっては「本様使」という役人が自分の目でしっかり記憶して、まったく同じものをつくらせたのです。

神宝の鏡とその入れもの

神宝の織機
もったいないの意味
 明治以前までは撤下すると燃えるものは燃やし、燃えないものは土の中に埋めました。「そんなもったいないことを…」という声が聞こえそうですが、その通り。実は「もったいない」から消滅させたのです。
 「もったいない」とは惜しいということが今では優先していますが、昔は神聖なものが人の手に渡り、粗末に扱われては「畏れ多い、かたじけない」との考えでした。
 現代では燃やしてしまうのは惜しいという方が優先されるようになり、すべて保存されて神宮の博物館の徴古館で一部を常時展示し、神宮司庁の神宝庫で保管し、また神宮とゆかりの深い各地の神社にもお分けされているようです。
 正倉院の宝物のような850種、2500点は伝統の美が生かされた絶品ばかりで、中でもきらびやかなのは玉纏御太刀です。
 琥珀、瑠璃、瑪瑙、水晶など約450丸の玉をはめ込んだこの太刀は、同様のものが藤ノ木古墳から出土したので有名になりました。あの古墳とは約100年しか年代に差がないから、式年遷宮の制度ができた頃の最も華麗な太刀拵であったわけで、それが千年以上もつくり伝えられて現在も神宮の神宝の中だけに生き続けているのだから驚きです。
 玉纏御太刀や須賀利御太刀は唐様の外装で、柄には鈴が付く輪金が取り付けられています。太刀の柄に鈴が付いているのは、埴輪に例があるものの現物が伝わっているのはこれだけです。そして2尾の金の鮒形が付きます。この金色の魚も珍しいです。
 鮒形は宮中に出入りするパスポートにあたる割符が後に飾りになるのですが、その由来や起源は古代中国やメソポタミア文明にまでさかのぼります。それがなぜ2尾の魚であるのかについては、拙著の『鮫』に書いたので興味ある方は見ていただきたいです。

神宝の太刀
「もの」に宿る神
 須賀利御太刀の柄には鴇の羽根が2枚付けられます。
 神宝の製作には実に困難が多いですが、一般の人にはトキの羽根の話が一番わかりやすいから、私もこの話を度々しました。ところが羽根が必要なのはトキだけではなく、鷲の羽根も矢羽根に2000本もいります。鷲や鷹などは入手が困難なので代表だけに用いて、あとは白鳥などで代用を余儀なくしています。
 太刀60振りの刀身の鍛造用の玉鋼の原料も不足し、砂鉄を蹈鞴で操作する日本独自の和鉄精錬の技法の継承者も少なくなっています。
 胡録という矢を入れる具や、白葛御靱、白葛の筥など葛編製品も昔のような精巧さを望めなくなりました。これらは古代の実用生活用具で、江戸時代には滋賀県甲賀市水口町の特産品で、戦前までは花器や籠など量産して輸出も盛んになされていましたが、ビニールやプラスチック製品に替わり後継者が絶えてしまったのです。
 布帛類もいろいろです。華麗な錦、優美な綾、繊細な羅、これらや和紙の染色は草、花、木の皮や根など天然染料を用います。この染色技術を伝える染色家もあまりいません。そう書くと、「現在は草木染がブームだから、いくらも居られるんじゃないですか」と言われそうですが、手工芸的な小品をつくる人は多くいても、大きな御衣や御被という神の御蒲団を均一に染め上げる技術を持つ人は少ないのです。染料の材料も莫大な量が要り、その入手も困難です。少し油断をすれば一つまた一つと時代の波にもまれて消えていきそうです。
 式年遷宮が始まった時代、文化の最先端は唐文化でしたから、当然、唐の文化をいろいろ取り入れたのですが、中国の様式をそっくりそのままにせず、日本の風土にマッチした日本的なものに巧みに昇華させてあるのが神宝の数々に伺えます。
 一例をあげれば「枕」です。私は先に枕の研究を10年ばかりして、2冊の枕の文化史の本を出版しているのでそれを見ていただきたいですが、神様の「御枕」は檜の長方形の木に花模様の美しい錦で包んだ可憐なのが2組で一セットになっています。この枕のルーツを探ると中国の唐の時代の唐三彩の高級陶器の枕にたどり着くのです。大きさも図柄もほとんど同じですが、日本的な材質と色に変わっているところがすばらしいと思います。
 神宝のほとんどは江戸時代まで貴族や武士が日常に使う品でした。もちろん超高級品ですが、基本的な様式は共通するものでした。明治時代に西洋文明が入り生活様式が変わり、すっかり過去の品物となり実用性が失われた2500点。その技術は職人から誇り高き美術工芸家に移り、人間国宝とされるような人々によって守られていますが、これを次の世代に伝えることは並大抵ではありません。
 1300年の長い遷宮の歴史は、敬神の心と平櫛田中さんがよく言っていた「わしがやらねば誰がやる」という名工の気迫に支えられて立派に継承されてきたのです。
 どの国にもクラフトマンシップがあるでしょうが日本には「もの」は単なる物ではなく、「もの」の内にカミとかタマシイが宿っているという考えがあったのです。
 自分のもてる最高の力、真心を神に照覧していただき、最上のものをこの世に残したいという職人気質が「日本の商品は見えないところまで、手抜きをせずに心がこもっている」と世界に評価されていることに連なっているのでしょう。
 古来、神宝は朝廷から調進され、どの時代も国費でなされてきましたが、現在ではこの大仕事を一宗教法人の神宮が独自でいたさなければならないのです。
 これから6年後の遷宮に向かって奉製は次々と始まり、延べ1000人にも及ぶそれぞれの分野での第一人者が、困難な事情もいとわずに「お伊勢さんのためなら、国の伝統技術を守るためなら」と張り切ってくださっているのです。

これが神様の枕

緋錦御衣(あけのにしきのみぞ)
神の晴れ衣
やの・けんいち|1938年三重県生まれ。
國學院大學文学部日本史学科卒業、40年間伊勢神宮に奉職し、神宮禰宜。
この間、神宮徴古館農業館学芸員、弘報課長、文化部長、神宮徴古館農業館館長。神宮評議員、伊勢神宮崇敬会評議員。
神道文化賞・樋ロ清之博士記念賞・児童福祉文化奨励賞・日本旅行記賞など受賞。
主な著書に『伊勢神宮』(角川選書)