保存情報第72回
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 那古野山公園 林廣伸/蒲ム廣伸建築事務所



*上図では後世の加筆が見られ、写しと考えられる。筆者は原本を探索中。ご存じの方はお教え下さい。
■発掘者コメント
 名古屋の中心市街地の祖形は「清洲越し」によるものであるが、もちろん、それ以前から那古野、末盛、古渡等々に城や砦が点在し、熱田の宮が鎮座し、集落が存在していた。猿投神社には「尾張国養老元年之図」が残されているが、この図では濃尾平野が一面海のように描かれている。識者によると、伊勢湾のような海原ではなく葭原、すなわち低湿地の表現であろうとのことだが、名古屋台地は陸地として表現され、浪越、日置、古渡、熱田等の地名も記載されている。また、平野内にも多くの古墳や遺跡が現存することから、古くからこの地に人々の生活が営まれていたことが知られる。
 名古屋の繁華街の一つ、大須にある大須観音(真福寺)は徳川家康の命により1612年(慶長17)に中島郡長岡庄大須(現羽島市桑原町大須)から遷座している。その大須観音と本町通との間に那古野山公園があり、一角に那古野山古墳が現存している。かつてはこの那古野山古墳を挟み、南北に二カ所、前方後円墳が存在していた。南は西本願寺名古屋別院あたりにあった大須二子山古墳で、北は若宮大通南の日出神社脇にあったが、遺構が現存しているのは那古野山古墳だけである。
 この古墳跡は江戸期には清寿院の境内地に取り込まれていたが、清寿院は廃仏毀釈により廃寺となった。その後、1879年(明治12)愛知県下初の公園として整備され、浪越公園と名付けられた。明治期においては名古屋市内唯一の公園であったが、1910年 (明治43)鶴舞公園の開園にともない閉園し、愛知県から名古屋市に無償で払い下げられた。名古屋市は1914年(大正3)に遺構保存のため那古野山公園として再整備し、現在に至っている。
 現状は、周囲をビルに囲まれ、古墳の一角は公衆便所に削り取られ、前面道路はゴミの収集場所と責め立てられ、古墳の主もさぞ窮屈な思いをしているのではなかろうか。一目には都心の小公園といった趣であるが、前方部は消失し、残されているのは円墳部のみとはいえ、名古屋の地の永い時間の経緯を伝える貴重な遺構だと思う。


所在地 名古屋市中区大須2
登録有形文化財 犬山寂光院 山田正博/建築計画工房

弁天堂

本堂

薬師門
■紹介者コメント
 犬山寂光院は尾張最古刹で、開基は654年(白雉5)とされている。広大な寺城を持ち、全山飛騨木曽川国定公園となっている。別名「もみじでら」と親しまれるほど美しい紅葉の名所でもある。
 境内入り口に建つ山門は一間一戸の薬師門となっている。この程補修工事が施されたばかりで、再生された白壁がまぶしい。緑の中、高齢者にもやさしく上り下りできるよう新たに整備された300の石段を上り本堂脇に出る。正面に廻ると、本堂は名のごとく、光あふれた中に寂かにたたずんでいた。華美な装飾は施されず、凛としたおもむきがあり、秘仏本尊千手観音が奉られている。
 本堂の西に随求堂があり、渡り廊下によって本堂と結ばれている。高床式で周囲に蔀戸をめぐらせている。中世の住宅風でもある。「求めに随って自在である尊い仏様」である大随求尊が奉られている。弁天堂は本堂の北にあり、六角形の平面で前半を吹放しとした小さな祠であった。本堂は1879年(明治12)の建立、山門が1836年(天保7)、他の2棟は文化文政年間に建設された。以上4棟が2005年登録文化財の指定を受けた。
 境内は四季折々の風情にあふれており、花見や紅葉の時期はもちろんのこと、松平山主による説教、写経会などさまざまな催しが企画され、多くの参詣者が季節を問わず訪れている。参道はすべて東海自然歩道になっており、これを東へ辿ると継鹿尾山山頂へ至る。さらに鳩吹山へと足をのばして心地良い汗を流し、木曽川を眼下に360度のパノラマを愉しむのもお奨めである。鳩吹山を北へ下るとカタクリの群生地があり、春には可憐な花を咲かせる。