伊勢神宮の文化史 第2回
天照大神の衣服
矢野 憲一(五十鈴塾塾長)
 最近は一般的に日常服と晴れ着の区別がさほどなくなりましたが、神様は昔のお姿ですから、この差が大きい。
 これから書くのは毎年春秋にお供えする平常服で、20年に一度新調する御装束・神宝という豪華な衣服や調度類については後ほど書くことにします。
 天照大神の神像というのはあまり知られていません。
 恐れ多くてどの時代にもあまり描かれなかったのでしょうが、それでも私たちのイメージの中には、やさしい女神が、白い衣の裳や領布という、上代の貴婦人が首や肩に掛けた、細長くて薄い飾り布をゆったりとなびかせる、おぼろなお姿を思い浮かべることができそうです。しかしそれは想像の世界で、誰にもわかりません。
 当時の衣服は古墳出土の巫女の埴輪や『魏志倭人伝』に出てくる貫頭衣という、布の中央に穴を開けて、頭を通して着る衣服しか具体的な史料もありません。
 仮にもし、現代人が大神の衣服だと、どんな素敵なデザインの服をお誂えしたとしても、お気に召されぬかもしれないし、それでは偽りになるでしょう。
 だから今もカタン、コトンと織っている衣服は、布のまま反物のままで、縫い針と糸を添えて、ご自由にお好きなようにオーダーメイドしてくださいと、春と秋にお供えしているのです。なんと大らかなことでしょうか。
 『古事記』や『日本書紀』にこんな話があります。
 「天照大神が高天原で神御衣を織っておられた時、乱暴な弟のスサノオノミコトが服屋の屋根に穴をあけ、馬を生きたまま皮を逆さに剥いで突き落とした。大神と一緒に作業をしていた織女は驚いて、機織道具の突き出ている梭で腹部を突き死んでしまった。これまでいたずらを寛容の心で我慢されていた大神も、今度ばかりは怒られて天の岩戸に隠れられた」。この先は誰もが良くご存知の神話です。
 神御衣(かんみそ・おんぞ)とは神が着られる衣服、または神に奉げる衣服です。  『倭姫命世記』によれば、2000年昔、皇大神宮(内宮)が伊勢の五十鈴の川上に鎮座すると、まずその近くに八尋の機屋を建て、天棚機姫神の孫の八千々姫命に高天原でしていたように、大御神の御衣を織らせた。宇治の機殿というのがそれであると記してあります。さらにこの書物には、内宮が鎮座する以前にも倭姫命が大神を奉じて志摩の伊蘇の宮(伊雑宮)におられたとき、神服織社を建て大神の衣を織られたとあり、この伝承は今も続いています。

天照大神はこんなイメージか

神様の衣である和妙(右)と荒妙
和妙と荒妙
 内宮の所管社の三重県松阪市大垣内町の神服織機殿神社では和妙(絹)、松阪市井口中町の神麻続機殿神社では荒妙(麻)が、今もカタン、コトンと織られているのです。
 このあたりは古くから紡績業と関係が深く、服部神部という神に捧げる絹や麻を織る人々が住んでいた地です。
 神服織や神麻続はいずれも大神宮に付属する神部の職名です。
 服部さんという姓氏は各地に多く、特に東海地方に多いようですが、服部姓は古代の職業部の服織部から出て、この地方が発生地だといわれています。
 おそらく『日本書紀』の雄略天皇の時代の衣縫の祖、漢織、呉織といった渡航の技術集団の子孫でしょう。現在もここには下御糸・上御糸・中麻続-麻生・機殿・服部などの地名があり、この地方全体が「御糸」と言われる特別の地域になり、江戸時代にはこの辺りは「松阪木綿」の名産地として有名でした。
 だが今日では紡績技術は機械化し、日常着の洋風化や、新しい繊維の登場などの事情から衰退の一途をたどり、唯一の企業と、そのルーツといえる神宮の二つの機殿が残るだけとなっています。
 神服織機殿神社は伊勢湾台風の以前には深い森でしたが、今はずいぶん明るくなりました。そのこんもりした森の中央に白石を敷き詰めた斎庭という広い空間があり、鳥居が一つ立っていて、その鳥居をくぐると中央に大きく立派な八尋殿があるので、そこが神社だと思い参拝する人が多いのですが、ここは機殿です。
 尋とは両手を伸ばした寸法ですから、八尋殿は両手を広げた8倍の長さの御殿を意味します。もっとも八という数字は末広がりの広大なという意味で名付けられたのです。
 天照大神の衣服となる「和妙」と「荒妙」の奉織は毎年5月と10月です。私も2度ご奉仕しました。昭和30年代はまだ電気がなく、ランプから蓄電池の電灯に変わった頃で、潔斎のお湯も木炭で沸かしていました。もちろんラジオも電話もなく、新聞は前日分を持ってきてくれました。
 次の昭和50年代には電気とプロパンガスが入っていました。夜の森の中で、ただ一人になるとフクロウが鳴いて寂しいです。一番近い民家は森をくぐり田の畦道を300mも離れています。14日間の参籠は長かったです。
 毎朝8時になると織子が出勤し神拝の上、潔斎して白衣白袴で御塩のお清めを受けて、八尋殿で作業をします。
 原料の絹糸は古くから愛知県三河地方などで産する「赤引の糸」。赤引というから赤色と思われるかもしれないが、赤は赤心とか、明るく清浄な糸という意で、もちろん白色です。神宮の用語をわかりやすく説明するのは実に難しいです。2000年にも及ぶ歴史の中で祭りの変化や、奉納されるシステム、さらには時代により呼び名が変わったり、同一化されたりしているからです。
 今使われている機織具はずいぶん改良されているのでしょうが、私には古代からそのままのように思われます。右手で引き綱を引くと、走板の中を横糸を通す船形の桙がすばやく走り、走板には筬が付いていて、この筬を手元に引き足を交互に踏んでカチャンコ、カチャコンと作業が進みます。両機殿の奉織は松阪市の無形民俗文化財に指定されています。


糸と針もお供えする


神服織機殿神社(左)と八尋殿
春・秋の神御衣祭
荒妙を織る
 神御衣祭は内宮が鎮座して以来ずっとなされ、神嘗祭に次ぐ古い由緒があり、平安時代の延暦の「儀式帳」や延喜の「大神宮式」にも詳しく記され、現在もほとんどこれが踏襲されています。ずっと古い頃はこの祭りは秋だけで、神嘗祭のときになされていたと推理されています。後年に宮廷の更衣の行事に習って、夏の初めにも行うようになり、夏と秋とのパラレルな祭りとなったようです。新聞やテレビでは「神さまの衣替えの祭りです」という解説がわかりやすいので、私たちもつい神の衣替えと答えてしまいますが、本当はもっと深い意味があるのでしょう。
 現代も各地の古社のなかには、式年遷宮の代わりに神座を新調することで神威を新しくするお祭があります。新しい神の衣服を神嘗祭に奉ることで、大神の御光をさらにより強く更新していただこうという深遠な信仰なのです。これが社殿をはじめすべての調度品も新しくする式年遷宮に連なってくるのです。
 神御衣祭は2000年間も途絶えることなく続けられてきたが、戦国時代から200年余りは、この村での機織りがやむなく中断した歴史もあるのです。しかし村人も神宮も失われようとする伝統の火種を残し、いつの日かまた燃え上がらせようと努力したのです。その先人達の信仰と努力に敬意を払いたいものです。文化とは持続させることでもあります。
やの・けんいち|1938年三重県生まれ。
國學院大學文学部日本史学科卒業、40年間伊勢神宮に奉職し、神宮禰宜。
この間、神宮徴古館農業館学芸員、弘報課長、文化部長、神宮徴古館農業館館長。神宮評議員、伊勢神宮崇敬会評議員。
神道文化賞・樋ロ清之博士記念賞・児童福祉文化奨励賞・日本旅行記賞など受賞。
主な著書に『伊勢神宮』(角川選書)