書のはなし 第三回
中国書道史(下)
太田穂攝(書家)
五代十国(907~960年)、 北宋(960~1126)、 南宋(1127~1278年)
 唐が滅びると王朝や小国が興亡を五十年ほど繰り返した後、宋の太祖、趙匡胤によって統一されます。貴族勢力が崩壊し、土地の自由な売買が一般化して新興の地主層が社会的地位を占め、その資力ある官僚知識人(士大夫)が台頭してきました。蘇軾①、黄庭堅②、米 らの士大夫は晋唐時代の書を学び、時の文士の影響を大きく受け、自詠の詩文などを自由闊達に表現していきます。蘇軾は字を東坡居士と言い、大変な美食家で、その名の通り中華料理でおなじみの東坡肉③(中華風豚肉の角煮)や独自のカリントウを発案しました。二代目太宗は五代十国の間に散逸した名跡を集め、鑑定の上、摸刻させ、拓本に刷らせて、書道史上、最初の書道全集ともいえる淳化閣帖を完成させました。
 文化の爛熟した北宋末、風流天子徽宗は、書画学院(院体)をつくり、書画、珍木奇石を集め、政治理念を芸術で表そうとしますが、人民に重い負担がかかり、満族系の金(215~1234)に攻入られます。敗れた宋は金と屈辱的な和睦を結び、賠償として宝物をことごとく奪われますが、徽宗の第九子高宗が南宋を再興しました。この頃、禅僧の交流により、日本に宋・元の書が多数入り、「墨蹟」という独自のジャンルを生み出しました。
元(1279~1367年)
 蒼き狼伝説(最近映画化されました)に始まるチンギス・ハンが、周辺遊牧民族を統合しモンゴルを興します。さらに、孫のフビライが屈強の騎馬隊を率い、金、西夏、南宋を次々滅ぼし、元を建国、日本へも南宋進攻の一環として対馬、壱岐、博多湾に上陸しました(元寇)。フビライは、蒙古至上主義で漢民を圧迫、漢字を捨て、崇めていたチベット高僧にパスパ文字④をつくらせましたが、結局、長い歴史を持つ漢字文化に同化されていきます。書にも勢いは見られず、趙孟ふ(兆+頁)⑤、鮮于枢などの、晋唐を踏まえた堅実で復古的な字が流行しました。元は、遠征による財政難、中央アジアを巻き込む内紛、皇位継承問題がもとで衰退に向かっていきます。
① 蘇軾・黄州寒食詩巻 ②黄庭堅・松風閣詩巻 ③ 東坡肉
明(1368~1644年)
④パスパ文字(漢字伝来 大島正二著 岩波新書)
 明は、仏教の一派が氾濫を繰り返す黄河の治水工事に徴集された人々が起こした反乱(紅巾の乱)に身を投じた朱元璋(洪武帝)が建国した漢民族の中華です。三代永楽帝は首都を金陵(現、南京)から北京に移し紫禁城を造営しました。明中期になると銀が流入して貨幣経済が普及、とくに蘇州は綿や絹織物業が栄え大商業都市に発展し、サロンが形成されると文徴明らが中心となって文墨生活を楽しんでいました。
 明末期は、宦官による政治腐敗、倭寇などによる軍事費増の財政難の中にあっても、人々は富と享楽を求め、書画を鑑賞する文化が生まれてきました。⑥、王鐸の作は行書や長く続く草書体で、豊かな情感、みなぎる生命力と、さまざまな表情を生み出しています。大作の南画の影響もあってか、書も長条幅作品が数多く残り、中には二mを超すものもあります。張瑞図は、雅号「二水」、その書は火難を避けるとも言われ、珍重されました。四日市の澄懐堂美術館では煤のついた瑞図の作品を観ることができます。中国は椅子の起居生活で、天井の高い建築が多く、長い作品がインテリアとして用いられ、書は中国建築の一部となっています⑦⑧。明の書風は、江戸時代の日本に伝わると、「唐様書」として流行しました。
⑤趙孟ふ(兆+頁) 三門記 ⑥張瑞図 五言律詩幅 ⑦蘇州の古典園林「藝圃」の博雅堂(明代建築)
(「墨」181号 芸術新聞社刊)
清(1644~1911年)から
 清は、東北辺境から出た女真族と同系である満州族のヌルハチ(太祖)が興起、跡を継いだホンタイジ(太宗)が中国全土を支配しました。清は「ラストエンペラー」愛新覚羅の王朝、その終焉は映画化され、ご存知の方も多いと思います。清は明を受け継ぎ短命国家として終わらないための懐柔策として漢民族とその文化を尊重しました。とりわけ康煕帝は満語と満州文字がありながら漢字四万七〇〇〇字余りを収めた画引き字典を完成させました。日本で市販されている漢和辞典(字典)などはすべてこの語順によっています。康煕帝の孫、乾隆帝は当代きっての蒐集家で、収蔵の書画には蔵印を押し、あとがきを記しました。帝の書斎は三つの稀な書の蒐集品にちなんで「三希堂⑨」としています。北京故宮、台北故宮博物院の収蔵宝物はほとんど乾隆帝のコレクションです。政治が安定すると宮廷を中心に、王文治、劉 らが王羲之の書法を理論立てて学ぶようになりました。
 一方の在野では、塩業の中心の揚州が、揚子江と大運河に栄え多くの学者文人が集まりました。豪商が一風変わった芸術家を支援するようになり、鄭燮⑩、金農⑪は奇趣溢れる書を編み出します。さらに甲骨文字や木簡が発見されると、考証学が興り、北魏や漢代の碑、周、秦代の篆書や隷書の研究が盛んに行われ、陳鴻寿⑫、呉煕載⑬たちはその風趣を捕らえています。書といえば晋唐時代の書や王羲之の書と考えていた人々に驚きを与えました。
 清末、アヘンの流入を禁止した清は、イギリスとの戦いに敗れ、香港島の譲割などが盛り込まれた平等な南京条約を結ぶと、アメリカ、フランスとも同様の条約を結び、開国を余儀なくされました。以来、太平天国の乱をはじめとして各地で革命、日清・日露戦争が勃発し、社会不安は増大していきます。その混乱の中、人々は新天地を求めてフランス租界と共同租界がつくられた国際都市上海をめざし、売芸生活を夢見て、多くの芸術家も上海に流れていきました。書画家と蒐集家、画商が集まるサロンが形成され、書画家は百花繚乱、中でも趙之謙⑭、呉昌碩⑮は、詩書画篆刻全てにすぐれ、古典を基に新味を打ち出したその作品は清国のみならず日本でも人気を博しました。
 この頃、駐日公使として日本に招かれた楊守敬は、エリート官僚日下部鳴鶴、伊勢出身の元外宮祠官松田雪柯らに、漢代からの一万点を超す中国の拓本を示し、筆談で書道復古の力説をしました。鳴鶴は楊守敬の帰国後中国に渡航、漢魏晋唐の書法を学び、その後も辛亥革命の中の楊守敬を支援します。教えを受けた鳴鶴は一門を築き、明治の日本書壇に君臨、現代書壇の基礎をつくりました。
⑧岳王廟内回廊(清代以降再建)
⑨三希堂(「墨」149号 芸術新聞社刊)
⑩鄭燮・懐素自叙帖幅 ⑪金農・昔邪之廬詩(「墨」149号 芸術新聞社刊) ⑫陳鴻寿・隷書八言聯
⑬呉煕載・篆書崔子玉座右銘 ⑭趙之謙・琵琶図櫂扇(「趙之謙墨寶展」由源社刊)
〈出典〉 ①、②、⑤、⑥、⑩、⑫、⑬『中国書道史年表』(玉村霽山編、二玄社刊)
太田穂攝(書家) おおた・すいせつ|三重県生まれ。近藤摂南に師事。日展会友、読売書法展理事、新書派協会常務理事