保存情報第69回
登録有形文化財 料亭 河文 森口雅文/伊藤建築設計事務所


外観


主屋内観

新用亭
■発掘者コメント
 料亭 河文は約400年前、名古屋城が築城されてまもなく創業したといわれ、江戸中期の絵地図に、ほぼ現在の位置に「ご馳走処」の表示がある。太平洋戦争では、名古屋空襲で一部を残して全焼したが、戦後に再建された。今でも名古屋の中心市街地にあって、この一画は特別な雰囲気をもった別世界が存在する。
 2004年(平成16)に登録有形文化財の指定を受けたものは、1950年(昭和25)に建築された、いずれも木造の「表門・塀・脇門」、伝統的な座敷や和風を基調とした洋間など格調高い接客空間の「主屋」、離れの「新用亭」、茶室風の「用々亭」、「渡り廊下」と、1937年(昭和12)に建築された、鉄筋コンクリート造の「厨房」の6棟である。主屋の棟札には、施主 林文左衛門、設計監督(監理にあらず)篠田 進、川口喜代枝、棟梁 神木政信の名と、昭和二十五年六月二十七日癸己吉祥の年号が読み取れる。当地の先輩建築家たちの戦災復興時の活躍ぶりと、棟梁以外に設計監督を依頼された建築主の見識がうかがえる。これらの北側には、石舞台と池を囲んで、1971年(昭和46)に建築された、谷口吉郎設計の「水鏡の間」がある。
 2800uの敷地内には、これ以外に別棟で「那古野の間」と「葵の間」があったが、2007年(平成19)春、解体されて、現在その跡地に新事業展開のための新しい施設(結婚式場・レストラン等)の建築中である。解体した古材は新しい施設の内装材として再利用される。以上、老舗河文の歴史と新戦略を、先代当主林永冶郎氏と第13代当主林左希也氏からうかがった。


所在地 名古屋市中区丸の内2-12-19
遺したい故郷の文化遺産 犬山橋 場々大刀雄/場々建築設計事務所

上流側から見る

近景

架構内観
■発掘者コメント
 愛知県と岐阜県の境を決めている木曽川は、大正のある日、地理学者、志賀重昂が、川中より岸を眺めた景色がライン河のそれに似ていることから、日本ラインと呼ぶようになった。また、李白の詩「早発白帝城」の「朝に辞す白帝彩雲の間、千里の江陵一日にして還る…」より犬山城を白帝城と呼び、上流には、江陵閣と呼ぶ建物もあるほどの景勝地である。この地の尾張と鵜沼は船で渡っていたが、交通量が増え、不便となり、やがて両県によって木橋が架けられ、賃取橋であったが不便さはやわらいだ。1923年(大正12)、今の鉄橋がかけられ犬山橋と命名される。竣工は、1925年(大正14)11月、総工費66.6万円。道路と専用軌道の鉄道との併用橋であって、わが国では数少ない形式であった石積みの橋脚は補強された。リベット構造の橋桁は、今もそのまま影を残しており、木曽川に映え美しい。現在、道路部分は、隣に4車線の新橋ができて渋滞は解消されている。
 この橋によく似た橋では、長野県の千曲川にかかる橋で長野市と須坂市を結ぶ村山橋がある。1924年(大正13)に着工し、長野電鉄長野線との併用橋で、当時の橋は今のように溶接ではなく、リベット構造である。このリベット構造で最も見事な橋は永代橋である。アーチ部分のフランヂの厚さは約30cm近くあり、何枚かのプレートを重ね合わせている。これを一体化するため、リベットは長さが30cm以上になり、リベットを焼くのに中央はよく焼き、両端を中より固めに焼き、打ち込んだ時に中がよく潰れるよう考えられていた。外国人技師によってでき上がった。

所在地 愛知県犬山市、岐阜県各務原市
橋 長 233.175m   幅 員 16.154m