伊勢神宮の文化史 第1回
伊勢神宮とは
矢野 憲一
(五十鈴塾塾長)
 三重県伊勢市にあり、全国十万の神社の頂点に立つ伊勢神宮。あなたもきっとお参りされたことがおありと思います。
 社殿は「唯一神明造」。掘っ立て柱に萱の屋根。そして20年毎の「式年遷宮」。建築に関わる皆さんはきっと関心がおありでしょう。
 私はそこで神主として40年間ご奉仕させていただきました。その体験から伊勢神宮の衣食住を中心とする神道の文化を書かせていただきます。
 伊勢神宮は正式には「神宮」といいます。しかし現在では各地で大きい神社を神宮というようになり、伊勢神宮と言わねばわからなくなりました。
 皇大神宮(内宮)と豊受大神宮(外宮)のご本宮、14ある別宮や摂社、末社、所官社と、全部で125のお宮から神宮は構成されています。面積は5,500haで東京の世田谷区ほど、職員も600人を超える大きな神社です。そこでは一年間に千数百回のお祭りがなされています。
 その歴史は2000年以上前に天皇が皇居でお祭りしていた天照大神を、当時の日本で最もふさわしいところにお祭りしたいと各地を旅して、伊勢の五十鈴川のほとりの現在の内宮の地で、皇女の倭姫命が「ここにいたい」という天照大神の声を聞いたのが始まり。『日本書紀』によればそれは垂仁天皇26年(BC4)と言います。
 ご神体のヤタノ鏡は三種の神器の一つで、天孫降臨のとき天照大神が高天原でニニギノミコトに「私を見るがごとくこの鏡をお祭りせよ」と民族の主食になる稲穂などとともに託した宝鏡です。
 なぜ鏡がご神体なのでしょう。鏡は太陽の象徴。上手に使えば太陽の光を集めて火もおこせる。光るものが何もない時代、自分の顔を見るにも水鏡しかないから金属の鏡はとても貴重品。笑えば笑顔が、怒れば怒る顔が映り、明るさや正直のシンボルとされ、そして何より、焚き火やかがり火に照らして映る鏡の中には、自分の顔でありながら、遠い祖先やまだ見ぬ子孫の顔までが見えるような気になる不思議な存在。あなたにはそんな経験がないかもしれませんが、現代のガラスの鏡ではなく、水銀メッキされた金属の鏡を炎にかざしてみれば、そんなオカルト的な気持ちになるものです。つまり鏡には、過去から未来にと永遠に続く自分の存在が映ると思ったのです。
 誰にも両親があり、その両親にもそれぞれの親があり、それを10代もさかのぼると私たちに何億人もの血が連なるご先祖がいることになります。そのどの親たちも愛情を持ってわが子を育ててきたのだから、民族の母である大神は私たちをきっとお守りくださるというのが神道です。
 神社の始めは、ヒモロギというサカキの木や、イワサカとかイワクラと呼ぶ大きな岩や石に神が宿るとし、自然の山そのものがご神体でもありました。いま地鎮際で祭場の中央に紙垂をつけたサカキを立てて神を迎えますが、あの姿が原型です。それにご神体の鏡を掛けました。その後、ご神体が直接見えるのは恐れ多いと、囲いや小屋ができて「祠」になり、やがて立派な「神社」に発展します。
 神宮の20年ごとに建て替えるという式年遷宮の制度は、持統天皇の時代、1300年前に始まりました。その第1回の遷宮がなされた頃も今とほぼ同じ規模の社殿になっていたと推察できますが、それ以前の規模はわかりません。『古事記』も『日本書紀』もできていない文字の記録がない時代です。おそらく小さな「社」にあったでしょう。私は毎年遷宮ができるほどの小さな社ではなかったかと思うのです。

宇治橋に冬至の太陽

宇治橋と神路山

皇大神宮(内宮)南御門
神嘗の大祭
内宮の御垣内
 もし「伊勢神宮は何をするところですか」と聞かれたら、私は「神嘗祭をする施設」と答えます。
 神嘗祭は、天皇が今年の新米を大神にささげる一年で最も大切なお祭りです。それは天孫降臨に際して、天照大神が栽培していた稲を瑞穂の国でつくりなさいとニニギノミコトに寄託して、それを歴代の天皇は約束どおり皇居で栽培し、今年も実らせました、豊作で平和な一年でしたと感謝のお祭りをするのが神嘗祭です。
 お米には天照大神の魂(スピリット)が宿り、天皇も国民も新米を食べることにより大神の精神を引き継げるという信仰で、米は日本民族にとって「イノチの根」とされてきました。
 神嘗際には神殿から祭器具にいたるまで、可能な限り全てを新調してお祭りをしたのですが、社殿が大きく規模が立派になると毎年新しく建て代えられなくなりました。そこで20年という決められた年(式年)になりましたが、祭器など、今でもできる限りこの祭にあたり新調しますので、「神嘗際は神宮のお正月」という言葉が今も残っています。
 鎌倉時代までの式年遷宮は20年ごとの神嘗際の日(10月17日)に行われていて、その日はまた神宮の由緒ある創立記念日でもあったのです。
式年遷宮の意義
次は西の御敷地に遷宮
 室町時代から江戸時代の初め、いわゆる戦国時代になると世の中が乱れてどうしても決められた年に遷宮ができなくなりました。やがて120年間も式年遷宮が延期し、修理を重ねて「式年・式月・式日」という制度が崩れてしまいましたが、幸いにも式年の伝統は復興でき、2013年(平成25)には第62回目が行われます。
 なぜ20年と定められたのか、その定説はありません。時代時代で説明が変わりますが、昔はなぜだとか、どんな意義があるのかとか詮索することなく、「天武天皇が決められたことだからするのだ」と理屈なしになされてきたのでしょうが、20年というのは実に理にかなった年数です。
 まず葺屋根の耐久年数と社殿の尊厳保持、それに技術の伝承です。  民家の萱屋根は50年ほどもちますが、それは囲炉裏から煙が出て防虫になり、雨漏りを防ぐからです。虫が付くと鳥がついばみ、そこから萱が崩れて傷みます。戦前までは、ほぼ10年目に修理のための仮殿遷宮というのをしていました。現代も御屋根の耐久力を強化したいと銅線を萱の下に張ったり、いろいろと研究をしていますが、20年もたせるのは難しいようです。
 現代での日本人の平均寿命は80歳にもなっていますが、1300年前はおそらく30代以下、1900年(明治33)でも37歳でした。ついこの間まで「人生わずか50年」とされていましたから、技術を伝承させるにも精いっぱいの年限です。
 さらに棟持柱を宇治橋の大鳥居にしたり、古材を再利用するにもふさわしいのです。私は世代を重ねて信仰を断絶させないことこそ、文化と伝統を正しく次の世代に伝え引き継ぐのに必要な年限で、それが昔も今も20年だと確信しています。
やの・けんいち|1938年三重県生まれ。
國學院大學文学部日本史学科卒業、40年間伊勢神宮に奉職し、神宮禰宜。
この間、神宮徴古館農業館学芸員、弘報課長、文化部長、神宮徴古館農業館館長。神宮評議員、伊勢神宮崇敬会評議員。
神道文化賞・樋ロ清之博士記念賞・児童福祉文化奨励賞・日本旅行記賞など受賞。
主な著書に『伊勢神宮』(角川選書)