書のはなし 第二回
中国書道史(中)
太田穂攝(書家)
新(8~23年)、 後漢(25~220年)
 前漢は滅び、迷信的な復古主義国家新の後、漢王朝は再興し、後漢となりました。儒教を国教とし、山東省曲阜には壮大な孔子廟が建設されます。功績のあった人々を讃える隷書①の碑が次々建立され、正書体とされた隷書は円熟期を迎えました。隷書は日本の紙幣や小銭に使われていて、横長の外形、水平の横画、ハネ(波磔)が特徴です。ちなみに、印は篆書です。
 この時代、蔡倫が蔡候紙という紙をつくり出しました。紙は、前漢時代の麻の繊維からできたものや、絹製のものが発見されていますが、共に実用性に乏しく普及しませんでした。蔡候紙は、主に捨てる布をすり潰したリサイクル製品で、安価で書き易くかさばらないため、世界中に広まりました。
 後漢の二代目明帝が夢で仏陀(悟りを開いた釈迦)を見、西域に使者を出して仏教を求めると、使者は数名の僧、仏典や仏像を白馬に積んで大月氏に到着、洛陽郊外に大伽藍を建て、中国初の仏教寺院である白馬寺としました。異民族文化の仏教が受け入れられるまでには多くの抵抗がありましたが、その後は漢が滅び、三国時代は儒教が衰えはじめ老荘思想(無)が盛んになっていた時期でもあり、仏教(空)とは合い通じると考えられ、次第に浸透していきます。さらにインドの高僧が長安に入ると、仏教は国の保護を受け、一層広まりました。


行書(東晋:王羲之)
南北朝:西晋(265~316年)、東晋(317~419年)
 漢が滅び、43年続いた魏、呉、蜀の三国時代を経て晋王朝(西晋)が誕生しますが、その後も王族の流血の権力争い(八王の乱)が続きます。西晋は、都の洛陽が五胡(匈奴、鮮卑、羯、羌、てい)に攻められ、晋朝の山東省の王族の一人が建康(現在の南京)に遷都し、晋王となりました(東晋)。同時に王羲之の出た山東省の名門、王一族も、王の力となるべく、江南地方に移動します。羲之の父、王曠は洛陽の匈奴討伐に出て、行方不明になり非業の死をとげました。朝廷の役人を務めた羲之は、有能でありながら役職の身分には関心を示さず、父の真相をはっきりさせるために早々に職を辞しています。
 羲之は、楷書②、行書③、草書④のいずれもが極致の達人で、1600年以上経た今も、学書者はその書を学んでいます。羲之は赴任先の江南の別荘地、会稽山陰の蘭亭で、「曲水の宴」を主催しました。曲水に杯を浮かべ、杯が流れ着くまでに詩ができないとその盃で酒を飲むというものです(この遊びは日本にも伝わり、平安貴族は和歌で楽しみました)。多くの詩ができ、羲之は詩の序文、「蘭亭序」③を書きあげ家宝としました。老荘思想に帰依した晩年の羲之が四川の高官周撫と手紙を交わしたとされる「十七帖」④は日本の平仮名にも大きい影響を与えています。羲之の肉筆は後述の唐の太宗皇帝が力の限り蒐集し、遺言により昭陵に殉葬されました。
① 隷書 
乙瑛碑
② 楷書 
黄帝経(王羲之)
③ 行書 
蘭亭叙(王羲之)
④草書 
上野本十七帖(王羲之)
南北朝:北魏(386~534年)
 遊牧民国家の北魏が黄河一帯を支配します。北魏は、漢化をはかり仏教文化を国家の柱としました。寺院建築、造像、写経、刻経が進み仏教美術の幕が開け、ことにガンダーラ美術の影響をうけた龍門石窟⑤は有名です。石窟内には多数の仏像が彫られ像坐や周辺の岩壁に、その由来や願文(造像記⑥)を刻してありますが、人々の信仰心の結晶らしく、古拙なその字体は造像体⑥と呼ばれる楷書で北魏人の素朴さが伝わってくるようです。山東省には山や丘陵、岩壁が多く、そこにも刻された野趣味ある楷書⑦が現存しており、字の特色は風土が生み出すものだと言えるでしょう。先述の羲之が愛着を示した会稽は現在の中国長江下流南岸、風光明媚で日本に似た温暖な気候からか高士が集まった地域です。それ故、字も温雅で貴族的な風になり、後に日本の風土と日本人の心に受け入れられていきます。
⑤左 龍門古陽洞北壁 ⑤右 龍門石窟中最大の奉先寺洞本尊廬舎那仏
⑥楷書 (造像体) 張元祖妻入り弗造像記 ⑦楷書 鄭義下碑(鄭道昭)
隋(581~618年)、 唐(618~907年)
 北方民族の隋文帝が江南の陳王朝を破って、300年ぶりに南北朝を統一しました。王羲之の七世の孫にあたる僧智永は名蹟「蘭亭序」③を所蔵し、30年間寺から一歩も出ず王羲之の千字文(全て異なる千文字を4字×250句に組み立てた文)を800本も臨書(見て書く)し、多くの寺に寄付しました。
 隋が滅び、李淵(高祖)が唐王朝を建てます。北朝の政治文化と南朝の芸術文化を融合した隋の後継者ともいえる二代目太宗皇帝は優れた君主で、王羲之を慕った能書家でした。隋の智永の後任住職が身を隠した太宗の使いにうっかり気を許し、代々の家宝蘭亭序は永遠に太宗のもとに…。太宗は書の振興に力を入れ、弘文館に手筋のよい者や書の愛好家を集め、収蔵した羲之の書で学習させます。この頃生まれた科挙制度(官吏登用試験)は、優れた秀才でも、特に楷書を美しく書けなければ合格しない難関でした。楷書はこの時代にほぼ完成を見ます。中でも楷書の名手、欧陽詢⑧、虞世南⑨、褚遂良⑩は隋からこの初唐時代にかけて、太宗の側近となり弘文館学士や羲之の書の鑑定を務めました。太宗は羲之の書の摸本をつくらせたり、先の三大家に臨書させました。現在私たちが目にする羲之の書は全てこれによるものです。また、孫過庭も王羲之書法を駆使した草書で書論を著し、王羲之を賞賛しています。
 八世紀、六代皇帝玄宗の時代、城壁に囲まれた唐の都長安は人口一〇〇万人の世界的大都市を形成し繁栄していました。芸術家肌の玄宗は善政をしいたものの、晩年は息子の嫁楊貴妃を後宮に迎え次第に政治を省みなくなります。政治は腐敗し、玄宗と楊貴妃に寵愛を受けた安禄山が台頭してきました。安禄山が兵を起す(安史の乱)と、玄宗は長安を捨て四川に逃げ、楊貴妃は逃亡中に殺されます(山口県油谷町に落ちのびたという伝説もあります)。この安禄山の兵に立ち向かったのが唐朝のエリート官僚、顔真卿といとこの顔杲卿でした。二人は最後まで唐朝に忠誠を尽くします。顔杲卿は降伏をしなかったために眼前で息子を殺され、その悲しみ極まる顔真卿が書いた行書⑫の祭文(弔文)が真筆のまま残っています。顔真卿は碑文も多く残しており、横画が細く縦画が太い楷書⑬は明朝体の基になっていると言われています。
 酒に酔うと叫び出し、髪に墨をつけ痛快な草書(狂草⑭)を書いた張旭。やはり酒が入ると筆を持ち、あたりかまわず狂草を書く僧懐素。即興のジャズライブを書で表現するとこうなるのかも。初唐から一〇〇年余の中、晩唐になると、書は整然とした美しさは形式化し、意気や感情が前面に出てきます。
⑧楷書
九成宮醴泉銘(欧陽詢)
⑨楷書
孔子廟堂碑(虞世南)
⑩楷書
雁塔聖教序(褚遂良)
⑪草書
書譜(孫過庭)
⑫行書
祭姪文稿(顔真卿)
⑬楷書
顔勤礼碑(顔真卿)
⑭草書(狂草)
肚痛帖(張旭)
〈出典〉 ①~④、⑦~⑭『中国書道史年表』(玉村霽山編、二玄社刊) ⑤、⑥『季刊 書21 NO.5 春号』(匠出版刊
太田穂攝(書家) おおた・すいせつ|三重県生まれ。近藤摂南に師事。日展会友、読売書法展理事、新書派協会常務理事