タイルの魅力 第6回
日本でのタイルの普及 〜近代から現在まで
後藤 泰男|INAXライブミュージアム ものづくり工房
1. はじめに
 1922年(大正11)に、それまでの「敷瓦」や「化粧れんが」などとさまざまな名称で呼ばれていた表面被覆材として利用される建築用陶磁器が、タイルという名称に統一され、工業製品としての「タイル」の位置づけが明確になった。これにより近代日本の建築へ工業製品としての供給体制が整い、結果としてタイルが普及していくことになる。
 先回、外装タイルの普及の過程として、明治時代にもたらされた赤れんがが外装タイルとして生まれ変わり、普及するまでの経緯をまとめた。今回は文明開化と共にもたらされた内装の壁や床用のタイルの普及と、昭和以降の外装タイルの普及についてまとめるとともに、現代のタイル事情について簡単にまとめ最終回とする。
2.内装タイルの普及 (江戸時代後期から昭和初期)
 江戸時代末期にペリーが来航し日米修好通商条約を結ぶ(1856年)と、長崎、横浜、神戸などの外国人居留地では、木造の西洋館が建てられた。室内には「西洋の床の間」というべき暖炉が設けられ、その装飾には大理石などとともに英国製のビクトリアンタイルなどが使用された(図1)。また、1868年(明治元)にドイツ人ワグネルが来日し、わが国に近代窯業技術をもたらし、1890年(明治23)には旭焼きタイル(図2)を製造した。この技術は淡陶梶A名古屋の不二見焼鞄凾ナ発達して国産乾式硬質陶器タイルとして応用され、ビクトリアンタイルを手本としたタイル(図3)が商品化された。
 しかしながら、西洋建築が増え西洋文化が普及したとはいえ、タイルを使った住空間は、多くの民衆の毎日の生活とは縁の遠い世界であった。また、日本の住宅が湿潤気候に適応した木造建築のため、障子や襖による開け放し可能な建築物が多かったこともタイル普及が遅れた理由のひとつである。タイルが人々の生活に関係を持ち始めたきっかけは、大正末から昭和にかけての銭湯や温泉の浴槽、流し場でのタイルの利用であり、徐々に衛生思想が普及することで日本の木造住宅の水廻り、特に風呂場や便所へ衛生思想に対する関心が深まり、一般家庭でのタイルの利用が増えていった。
図1 大阪泉布観の暖炉に使用されている英国ビクトリアンタイル(明治中期) 図2 旭焼タイル(19世紀) 図3 国産(淡陶製)ビクトリアンタイル(20世紀)
3. 外装タイルの普及(昭和初期)
 関東大震災以後、地震に弱いとされたれんが建築が消滅し、代わって鉄筋コンクリート製のビル外壁を飾るのはスクラッチや粗面の湿式無釉タイルであった。中でもスクラッチタイルは帝国ホテル旧本館の影響を受けて昭和に入ると多くのビル外壁に使用されていった。1924年(大正13)竣工の青山会館、石川県庁舎(図4)が早く、昭和に入って急激に増加し、警視庁、内務省、文部省、特許庁等の官庁建築や東大、東北大、北大、早稲田大などの学校建築にスクラッチタイルが使用された。粗面タイルの代表的な建物は、F.L.ライトの弟子遠藤新が設計した旧甲子園ホテル(図5)がある。
 また、昭和初期に流行した建築陶器としてテラコッタの存在を忘れることはできない。テラコッタとは、一般的には陶製の彫塑像を指すが、建築業界ではビル外装に用いられた装飾目的の大形の陶磁器建材を指す。このテラコッタは、アメリカ建築から取り入れられたとされ、高島屋大阪店(図6)や大阪倶楽部など、戦前の多くの建築外壁を飾っていた。
図4 旧石川県庁舎(1924年竣工)  図5 旧甲子園ホテル(1930年竣工)  図6 高島屋大阪店(1932年竣工)
4. 戦後(昭和後期)のタイル文化
 戦後のタイル市場は高度経済成長に伴う建築需要の増加に伴って大阪万博までの20年間は加速度的な躍進を続けた(図7)。特に内装タイルは戦後急激に流入したアメリカ文化による住宅の洋風化が進み一般家庭の浴室や台所やトイレに普及し、従来の暗いイメージを明るく一変させた。このアメリカ式の住宅に適応したタイルは同時にアメリカへの輸出全盛時代を招来し昭和40年代前半まで内装タイルの輸出比率が高まった。  ところが、昭和40年代中ごろから、イタリアを中心としたデザインタイルが世界中に浸透し始めて、アメリカ市場で日本のプレーンなタイルにとって代わり、日本の内装タイルの輸出量は激減した。  この結果、内装タイルの生産量は昭和40年代をピークに横ばいを続け、さらに昭和後期には洋式トイレの普及やユニットバスの普及と共に水廻りへのタイル使用量が減少し生産量も減っていくことになる。  また、外装タイルは戦後の建築物が直線的でシンプルに代わってきたことに伴って、平滑でスムーズな表面を持った釉薬物が多く用いられた。その後モザイクタイルや窯変釉薬タイルが施工方法の開発と共に使用が拡大していった。特にプレキャストコンクリートパネルにタイルを同時に打設する「先付けPC板工法」の開発(図8)は、超高層ビルへのタイルの使用を可能にし、タイルの外壁への利用を一気に増加させていった。
図7 タイル別販売量の推移(1954年〜1989年) 図8 PC板開発の様子(昭和40年代) 図9 ベルリンポツダム広場(1998年竣工)
5.現代のタイル事情
 昭和40年代よりタイルデザインの先進国であるイタリア・スペインを代表とする欧州のタイルが世界中に市場を拡大していった。ところが、日本ではこれら欧州のタイルが普及するのは、平成に入ってからのことになる。この理由として、日本の品質規格が厳しかったことに加えて、日本独自の工事を伴う販売形態の複雑さが挙げられる。しかしながら、日本の商社が積極的に店舗の床などで使用を進めるにつれ、床タイルの輸入は拡大し、現代のタイル輸入量は大きく増えてきた。特に、イタリア、スペインからデザインを学び、安価な労働力や技術開発により生産量を拡大する中国や東南アジアからのタイル輸入は、ますます拡大している。
 また、外装タイルに関する新しい傾向として、1998年にベルリンのポツダム広場で使用された大型のテラコッタやテラコッタルーバーの利用(図9)がある。この大形のタイルやテラコッタルーバーは世界中の建築家の注目を集め、日本でもその影響を受けた建築物が増えている。  
6.最後
に  約5000年の歴史を持つタイルの文化や技術を6回にわたりまとめてきた。タイルの製造技術やタイル使用の歴史は、世界各国の文化の交流と共に発達してきたわけであるが、改めて数千年前や数百年前のタイルを見直し、これらタイルが語りかける事実の多さに驚いている。数千年前、数百年前のタイルからは、当時の生活の様子や技術力、さらにはさまざまな国との交流の様子までを知ることができる。「モノが語る」とはよく言われるが、まさにタイルが語るタイルの歴史についてまとめてきたわけである。
 ここで、忘れてはいけないことは、これらのタイルが現存している理由であり、建材としての役目を終えた後も捨てるのをためらった人がいた事実である。捨てられずに保存されてきた理由には、タイルの美しさや存在感などが挙げられるだろう。そして、現在流通するタイルの中にどれだけ捨てるのをためらうタイルがあるのだろうか。この「タイルの魅力」シリーズをまとめてみて、改めて考えさせられた。  
 最後になりましたが、「タイルの魅力」について掲載させていただきました(社)日本建築家協会東海支部の皆様に感謝いたします。     
<参考文献> 1) 「日本のタイル工業史」 INAX出版
ごとう・やすお|1959年福島市生まれ。1985年豊橋技術科学大学物質工学修了、INAX入社、現在に至る。
         過去にセラミックス楽器開発、古代エジプトピラミッド使用タイルの分析、テラコッタルーバーの開発等を担当