JIAと私E

JIA会員としての自覚と自己責任
高木滋生
 私が旧日本建築家協会へ入会した時期は今から40年前、30歳代の前半、事務所も東京の八重洲にあったころだと記憶している。
 会員番号は1005番、ちなみに当時の静岡県の会員を調べてもたったところ、静岡県でわずか9人、田中忠雄さんや針谷正作さんなどの大御所が顔をそろえていたが、現在健在な方は大木幸雄さんと塩坂博さんのみで、皆故人となってしまっている。家協会の長い歴史と重みを改めて認識するわけで感慨深い。私もそろそろかなあとも考えてしまう。
 私としては若い年での入会であったが、当時、家協会に入会できることは、建築家のステータスシンボルであって、早く入会し建築家として認知してもらいたいという切なる希望がそこにあった。今、会費を安くしても会員増強がままならぬ状況であるが、当時の私の心境からして考えられないことであって、今、余程JIAに魅力とステータスがないのか、また建築家個人個人に問題意識が欠乏しているかのどちらかではなかろうかと思う。昔の家協会を知っている私だけに情けない気がしてならない。
 したがって入会にあたって作品を含む厳しい書類審査と本部役員による面接もあった。面接には田中忠雄さんがおられ、いろいろと質問を受けたが、たまたま父の友人ということもあって、緊張していた気持ちが和んだことが今、思い出される。
 おかげさまで会員に推挙されたが、喜びと共に、ちょっぴり誇りなるものを意識したことも正直事実である。それゆえに、建築家としての倫理観を心に受け止め、協会員として恥ずかしくない行動と作品をつくり続けようと決心したこともまた事実である。
 なぜ40年前の会員番号がすんなり出てくるかと言えば、会員となって家協会の朱肉印のある「建築家の業務と報酬規定」が配布され、その表紙に1005番の会員番号が明記されていた。この料率表は1冊のみで、以後、設計料を決定し契約に至るまで、その効力を十分発揮し大活躍する小冊子で貴重なものであった。当時、社会的に設計料なるものが認知されなかった時代に設計料の改善にも役立ったし、クライアントに対しては、テレビの水戸黄門の印籠並みの効果があったことも事実であった。
 かなりの頻度で長年使用したため、今はボロボロとなって残っている。この料率表を眺めていると私自身の建築人生が凝縮されている感じである。今は私の人生の中の貴重品だったと崇め、大事にファイルされている。
 もう一点、時々若い後輩からJIAへ入会し何がメリットなんですかと現実的な質問を受けることがある。それに対して、「メリットのみを期待してはいけないよ。JIA会員としての自覚と自己責任をあなたが意識して仕事をすることが大事であって、建築家としても使命であり、あなた自身の心の中にあるのよ…」と抽象的な回答をしているが、まんざら間違った意見ではないかと思っている。
 しかし、私が入会したとき、卑近なメリットを求めたことを白状してみると、名刺に日本建築家協会会員として肩書きを入れ、全国に1000人しかいない建築家団体ですよとPRできたことが大きかった。
 今、建築家資格制度を発足させ、建築家の社会的職能を認知してもらうことを目的としているが、会員の少ない当時は、自分自身の自己PRでもって十分に認知、理解されたように思われた。
 しかし最近の姉歯問題やその他の偽装が浮かび上がり、建築家の社会的基盤が傾き不信感を持たれていることも否定できない。私たちも、建築家の職能、使命、責任などの原点を再度見直し、信頼の置ける建築家像の構築に努力する時期が到来しているといって過言ではない。
 さて、旧家協会入会時のことを中心に述べてきたが、40年も在籍していながら会員としての奉仕が不足していたことを深く反省している。
 43歳のころ、旧静岡県建築事務所協会の会長と全国の副会長を歴任したもののJIAとしては地域会の副会長しか経験していないように思われる。
 生来、私自身、作家特有の一匹狼的性格があって、社会的活動を苦手としている。自らも統率力、指導力、説得力が不足している事実を自覚している。言い訳がましいが、JIAのパーティでも、いつも隅でちびちび、中央のテーブルにはなかなか近づかない性格を持っている。
 長い歴史の中では、VIPを招待した草創70周年大会の大会実行委員会とか全国大会で訪れた沖縄や広島、地域会でのインド旅行などなど思い出も深い。
 まだ人生が終わったわけではないのに思い出を語るようになった自分が情けない。
たかぎ・しげお|1936年静岡市生まれ。1959年東京藝術大学建築科卒業、現代建築研究所、福田良一建築設計事務所を経て、1963年高木滋生建築設計事務所を新宿に開設、その後静岡に移転し現在に至る。地域会副会長、支部監査、東海学生卒業設計コンクール審査委員などを務める