書のはなし 第一回
文字のおこりと 中国書道史(上)
太田穂攝(書家)
書、その魅力とは
 文字は思想感情の記述・記憶の伝達のために発生したものです。文化の発展にともない、その用をみたしつつ美的に表現する方法が生まれ、この美化された文字を書といいます。線質と構成と布置により、その時に沸き起った感情を美意識でもって抽象的に表現する書。裏を返せば書は、書き手のセンス、人間性が一瞬にしてすべて現れる恐ろしくも魅力的な芸術なのです。
 建築家、白井晟一は、一日の半分を習書に充てたといいます。「筆・墨をもって紙にむかうことはたしかに一つの『行』にちがいなかったし、心と目と手の一如を不断に身につけていなければ『書』にならなかったという経験の反覆は、先達が生きてきた時間や空間にわずかでもせまりたいという望みを深め、空間造型の無限の意味を省る何よりの励ましであった」と著しています。
 「書はもとより造型的のものであるから、その根本原理として造型芸術共通の公理を持つ。〜中略〜書を究めるという事は造型意識を養うことであり、この世の造形美に眼を開くことである。書が真に分かれば、絵画も彫刻も建築も分かる筈であり、文章の構成、生活の機構にもおのずから通じて来ねばならない。書だけ分かって他のものは分からないというのは分かりかたが浅いに外ならなるまい。書がその人の人となりを語るというのも、その人としての分かりかたが書に反映するからであろう」。詩人、彫刻家、評論家としても名高い高村光太郎の言葉です。氏は書にも造詣が深く、自分にとって、書は最後の芸術だと言っています。
 また、あらゆる芸術に精通する私の師匠のもとには上質な美の縁が集まります。高い精神性と審美眼、豊かな感性で書を究めている師匠だからこそと、つくづく感じています。

篆書(秦:泰山刻石)
文字のおこり
 人類の感情の伝達は、身振りや手まねの時代があり、その後、言語が発生したと想像されています。言語は残せないので、原始人は縄の結び方によって想いを表現し、記憶の符号としました(結縄)@。この結縄にも不満を感じて、実物の写生、つまり、簡単な絵文字A「象形文字」が出現してきました。世界の全ての文字はこの象形文字に端を発しているとされています。  現在、世界では、文字の種類は五十余種が使われていますが、その根源はナイル河流域に発達したエジプト文字、チグリス・ユーフラテス河流域に発生した楔形文字、中国黄河流域に発展していた漢民族による漢字の三種であるといわれています。

@ ペルーの結縄

A エジプトの絵文字 (ともに『和漢書道史』藤原鶴来著、二玄社刊より)
中国文化と書道の歴史
〜殷(BC1500〜1100)、周(BC1100〜771)

B 甲骨文字(『中国書道史年表』玉村霽山編、二玄社刊より)
 
C 金文。毛公鼎(西周)の江兆申識語、隷書(『中国拓本名品展図録』二玄社制作、由源社刊より)
 今から百年ほど前の北京、マラリアの薬として獣骨を粉にしていると、それらに文字が彫り込まれていることに気がつきました。すると特定の村から次々獣骨が掘り出され、文字の判読も進んでいきました。これが現在確認されている中国最古の王朝、殷の、甲骨文字Bの発見でした。殷では、亀の甲羅や獣骨に文字を刻み、火であぶり、その亀裂で神意を占い政治を行いました。殷は、「酒池肉林」の故事にあるように、暴虐な紂王が夜毎、豪奢な酒宴を催し、美女妲妃を溺愛し政治を顧みなくなり周に滅ぼされてしまいます。  周は、殷と異なり実質の力を肯定した国家でした。この時代は殷時代よりも精巧を極めた青銅器が多く鋳造されました。装飾のある祭礼器、食器や酒器等に、辞令、褒美、戦功の内容の文が鋳込まれており、この文字を金文Cといいます。
春秋戦国時代(BC770〜221)、 秦(BC221〜206)
D 戦国時代の篆書、石鼓文(『新書道V』戸田提山ほか著、教育図書刊より)
 周の力が衰え、春秋戦国時代の七国を統一した秦が誕生します。始皇帝は各国異なった律令、衣冠、言語、貨幣、度量衡を統一し、文字は縦長の形の篆書Dを正書体と定めました。また、実用以外の書物は全て焼き捨てました(焚書)。春秋時代末、魯の国に生まれた孔子の儒教の書物も例外ではありません。暴政を批判した学者は生き埋めにされました(坑儒)。戦国時代は多くの理論家や軍略家が登場した諸子百家時代で、始皇帝は恐れを抱いていたのです。ちなみに「万里の長城」は春秋戦国時代の諸国が辺境を防ぐために築いたものを始皇帝が大増築してこの名を称しました。「兵馬俑抗」には、始皇帝の近衛兵の隊列や馬(副葬品)が埋められていました。現在、いずれも観光地化されています。  篆書は縦長で筆記に時間がかかるため、直線に省略整理された横長の隷書の兆しEが出始めます。隷書という名称の由来は、事務用文字として徒隷(下級役人)によって考案されたという伝説からきているようです。
 始皇帝が亡くなると秦は弱体化し、圧政に耐えかねていた民衆があちこちで反乱の兵を挙げます。農民代表の劉邦(漢)と貴族代表の項羽(楚)は連合軍を起しますが、両者は決裂しました。項羽は夜更け、四面包囲された漢軍の中から楚国の歌を聞きます。楚民が漢軍に引入れられたと知り、項羽は敗れ死にます。これがご存知「四面楚歌」の故事です。
前漢(BC206〜AD8)
 劉邦は高祖と称し、前漢は約二百年続きました。後漢の時代も含め漢文化は脈々と現代まで受け継がれています。
 この時代、孔子旧宅の壁から「論語」「春秋」など竹に書いた孔子の書物が見つかります。始皇帝の焚書弾圧から孔子の子孫が守り抜いたものでした。前漢時代は絹、竹や木に字を書いた竹簡E、木簡Fが多く、そこには隷書を速書きしてできる草書の兆しFも見えます。これらは敦煌や楼蘭から多数出土しています。
 また、金属や石に字を彫ることも盛んでした。この時代の官人は、全て役職や身分を表す銅の印Gを持ちました。皇帝や国王の印には玉、金などが用いられました。印のつまみには蛇、亀、虎などがあり、身分により定められていました。印の歴史は古く、すでに戦国時代から信用保証に使用されていました。
 建築材として使われるJ(煉瓦の類、壁や床に使用)や瓦当HI(宮殿等、大建築の軒先瓦)に、家の名、家訓、吉祥語をデザイン化した隷書や篆書が施されました。多くは木型などに図柄や文字を彫り、粘土に型押ししたものです。今なお「古くて新しい」これらの文字は学書者に、様々なインスピレーションを与えてくれます。

E 雲夢睡虎地秦墓出土竹簡(『中国書道史年表』玉村霽山編、二玄社刊より)

F 居延漢簡「永元器物薄」(木簡)(『中国書道史年表』玉村霽山編、二玄社刊より)

G 亀のつまみの銅印(『鴨雄緑齋蔵 中國古璽印精選』)(菅原石慮編、アートライフ社刊)

H 漢の瓦当「長樂未央」(『明末清初名品展図録』近代書道研究所制作、由源社刊より)

I「長樂未央」の拓(『マンガ 書の歴史 殷〜唐』魚住和晃編、講談社刊より)

J 押型千秋万歳敷 前漢時代
[参考文献]『書の深淵』北村太一著、二玄社刊 篆書(秦・泰山刻石)
太田穂攝(書家) おおた・すいせつ|三重県生まれ。近藤摂南に師事。日展会友、読売書法展理事、新書派協会常務理事