タイルの魅力 第5回
日本でのタイルの普及 〜敷瓦から帝国ホテル旧館の「すだれれんが」まで
後藤 泰男|INAXライブミュージアム ものづくり工房
1. はじめに
 古代エジプトから始まる世界のタイル史は、各国の文化や技術と融合することで発展し、19世紀のイギリスでの産業革命により工業製品として世界中に普及した。一方、19世紀前半の日本(江戸時代)では、屋根瓦が普及していたものの、壁や床には敷瓦や※1といった焼き物建材が一部の寺院の床や城郭の塀に使用されていたにすぎない。(図1、2)
 ところが、明治時代に入ると西洋文化が一気に入り込み、建築の分野でも焼き物としての建材が製造技術とともに一気に普及することになる。日本の建築へ最も大きな影響を与えた建材が「れんが※2」である。特に当時のれんがは、赤れんがの名前で親しまれ数多くの赤れんが建築物を残している(図3)。このれんが建築の普及は急速であったが、終焉もまた突然であった。大正12年に起こった関東大震災にて、多くのれんが建築物が倒壊し、その後のれんが建築への制限が行われたのである。この後、れんがに代わって普及した建材が「二丁掛け外装タイル」である。この外装タイルが普及するきっかけとなった建築物が帝国ホテル旧館のライト館であった(図4)。
 本編では、明治以前の敷瓦、、なまこ壁の使用状況と文明開化によってもたらされたれんがが、関東大震災によって外装タイルへと変遷する経緯をまとめる。
(図1)法隆寺中門敷瓦 (図2)旧金沢城三十間長屋なまこ壁 (図3)半田赤レンガ建物(旧カブトビール工場)
(図4a)帝国ホテルライト館玄関(明治村) (図4b)帝国ホテル「すだれれんが」でできた柱の一部(世界のタイル博物館蔵)。型枠としてれんがを用い、コンクリートの中に鉄筋は入っていない (図5)中国蘇州虎丘雲岩寺塔。961年に創建され7度火災にあった造の塔で、現存するのは清代のもの
2.6世紀に瓦とが中国より伝来
 古来日本は、韓国・中国という大陸の文化を自ら進んで取り入れ、自国で育む民族であったが、建築については大陸の一般的なや石による建築(図5)は学ばなかった。この理由は、地震地帯であると共に、雨季があり湿度の高い日本の気候がや石による堅牢な建築を受け入れなかったためで、高床式や開け放しの壁を可能にする木造建築を主として取り入れたのである。
 木造建築の中で、焼き物として必要であったのが瓦であり、仏教が大陸より伝来した50年後の588年に奈良飛鳥寺の造営工事が始まり、その時、百済から4人の瓦博士が派遣され、製瓦技術が伝来したとされている。もまた同時期に大陸より伝わったといわれており、仏様の姿を現した仏(図6a)や文様を施した文様(図6b)などが7世紀から8世紀の寺院から出土している。
 この瓦やが床に使用されて敷瓦(敷)と呼ばれ、寺院建築物の床材として使用されたのが床タイルの日本での原形である(図1)。また、江戸時代には、正方形の平瓦を城や寺院建築の塀や倉土壁の表面に並べ、目地部分を漆喰でかまぼこ型に持った壁面(なまこ壁)が、壁タイルの日本での原形とも言われている(図2)。
(図6a)南法華寺出土三尊仏(7世紀)(世界のタイル博物館蔵) (図6b)蓮花唐草文様(7世紀)(世界のタイル博物館蔵)
3.西洋建築素材としての赤れんが
 わが国にれんがが本格的に導入されたのは、幕末期の軍需工場である長崎鎔鉄所で、オランダ人海軍機関将校ハー・ハルデスが長崎の瓦屋に命じて赤い色のれんがを焼かせたと記されている。
 その後、明治維新により日本での近代建築が勃興し、西欧建築物が盛んに取り入れられるとともに赤れんが時代が熟成することになる。日本各地にれんが製造所が生まれはじめ、東京銀座れんが街、群馬県富岡市の富岡製糸場をはじめとする赤れんが建築が文明開化のシンボルとして各地に建設された(図3)。この赤れんが建築の集大成として辰野金吾設計の東京駅が大正3年に竣工した(図7)。この東京駅はれんが造とはいっても特殊な積み方がなされている。まず基礎工事を終えた後に鉄骨が組み立てられ、それかられんが積が行われた。用いられたれんがは躯体れんがと化粧れんがの2種類で、鉄骨が埋め込まれているような形で躯体れんがが積み上げられた後に、化粧れんがが表面に張られた。この化粧れんがもまた厚さが15mmと45mmの2種類の形状を持っていた(図7b)。
 この鉄骨を持つれんが造が関東大震災を耐え、化粧れんがは表面を装飾する目的としての外装タイルの初期の使用例でもあった。しかしながら、後の外装タイルを普及させたのはこの東京駅の化粧れんがではなく、大正12年に竣工した帝国ホテルの旧館であった(図4)。
(図7)東京駅 (図7b)東京駅使用の化粧れんが(世界のタイル博物館蔵)
4.帝国ホテル旧館の「すだれれんが」の役割
 大正5年、帝国ホテルは新館の設計を20世紀の巨匠建築家 F.L.ライトに委託し、大正8年に建設が開始された。その内外装は、れんがと大谷石を主体としていた。この施工方法は、このれんがで型枠状に周辺を囲み、その中にコンクリートを流し込む方式で、そこに鉄筋は入れていなかった(図4b)。ライトは、この方法について、「建物は大谷石もれんがも構造材として使われていないのである。それらは造形上の被覆『型枠』として用いられ、全構造材と一緒に組み込まれた装飾体そのものなのである」と記している。
 帝国ホテルは、落成披露式の当日(大正12年9月1日)に関東大震災が起こり、多くのれんが建築物が倒壊する中、幸い倒壊をまぬがれた。このため、この建築方法が一躍脚光を浴び、改めてライトが高く評価された。しかし、このれんがによる型枠工法はその後育たなかった。ただ、外装を飾ったれんがは、その意匠が縦に引っかき筋のあるれんがで簾を連想させたことから「すだれれんが」と呼ばれ、震災復興以来、わが国建築業界に意匠的にブームを呼んだ。すなわち、すだれ状の意匠はそのままに厚さを薄くしたタイルが、鉄筋コンクリート造の表面にモルタルで張り付けられ多くの建築物の表面を飾ったのである。このタイルは、今スクラッチタイルと呼ばれ、今なお根強い人気を得て使用され続けている。
5. おわりに
 タイルが普及する以前の敷瓦、、化粧れんがといった日本の焼き物建材についてまとめてきた。タイルという用語は英語のTileから来る外来語であり、文明開化と共に欧州で発達した内装用の壁タイルや床タイルと共に日本にもたらされたものである。そして大正11年に、それまでタイル、化粧煉瓦、貼付煉瓦、装飾煉瓦、貼瓦、敷瓦等の様々な名称で呼ばれていた「建築物の壁・床を被覆する薄板上の陶磁器」が、「タイル」という名称に統一された。  この欧州よりタイルという言葉と共にもたらされた内装用の壁・床タイルは、当初西洋人の日本の住居など一部で使用されたにすぎず、一般への普及は昭和に入ってからのことになる。この経緯について次回にまとめる。
<参考文献>
1)「建築用セラミックタイルの知識」柴辻政洋、山内史朗、鹿島出版
2)「日本のタイル工業史」INAX出版
3)「日本タイル博物誌」阿木香、新見隆、日野永一、山本正之、図書出版社
4)「日本煉瓦史の研究」水野信太郎、法政大学出版
ごとう・やすお|1959年福島市生まれ。1985年豊橋技術科学大学物質工学修了、INAX入社、現在に至る。
         過去にセラミックス楽器開発、古代エジプトピラミッド使用タイルの分析、テラコッタルーバーの開発等を担当