インドの建築 第2回
古代インドの仏教石窟
野々垣 篤
(愛知工業大学工学部 助教授)
前回はインド古代の仏教建築のうち、最も特徴的な存在であるストゥーパ(仏塔)を中心に述べたが、今回は仏教石窟の話である。石窟は、インドでは必ずしも仏教に限ったものではなく、ヒンドゥー教、ジャイナ教を始めとするインドの宗教建築として普通に見られる一つの建築形式である。しかし仏教のものが数的に圧倒的に多い点、また後に仏教が衰退し構築的な建築が破壊され遺跡化したインドでは、石窟のように大地の中に刻まれたために現在も当時の仏教的空間をイメージさせる点で、仏教石窟は建築の歴史上貴重な存在となっている。石窟形式が多いということ自体がインド建築文化を捉える重要な視点を含んでいると筆者は考えているが、ここではそこまで踏み込んだ議論はせず、仏教建築の歴史的な展開にかかわる特徴を示すことを中心に仏教石窟を見ていきたい。
現存最古の石窟
 インドの石窟で現存最古の遺構はビハール州バラーバル丘およびナーガールジュニー丘にある石窟である。特に前者は、E.M.フォスターが著した小説『インドへの道』に登場するマラバールの洞窟のモデルである。これらにはアショーカ王時代の銘文が刻まれる石窟があり紀元前3世紀半ばのものとされている。なお、これらは仏教のものではなく、アージーヴィカ教という宗教に関係するものであるが、その後のインドの建築的発展を考えると非常に興味深い特徴を備えている。特にバラーバル丘のローマス・リシ窟(図1)は内部未完成ながら入口装飾が起りのある木造切妻破風の形式の浮彫で、その細部表現なども非常に見事である。当時の木造建築の姿を伝える貴重な例であり、後述する仏教のチャイティヤ窟のファサードに見られるアーチ(チャイティヤ・アーチ)のデザインの原点といえるものである。なおこのアーチの形は、後にインドで宗派を問わない最も普遍的な建築装飾要素となる。
仏教石窟の歴史的な捉え方
 ここで仏教石窟の歴史を考える際の基本事項を記しておきたい。前回、初期仏教建築には2種類の形式があると記したが、石窟も同様である。ストゥーパを祀るためのチャイティヤ窟と修行僧のための僧院窟すなわちヴィハーラ窟である。また仏教石窟の建築学的な編年の際、つくられた年代が不明確な石窟を捉える視点として、木造建築的表現に忠実で、平面形が単純であるものがより古いという根強い見方がある。つまり木造建築表現の石への写しから始まった石窟が次第に石造建築表現化したとする流れが想定されているのである。また仏像成立の2世紀以降、石窟も建築的変化を次第に受けたため、2〜3世紀以前のものを前期石窟、5世紀以降のものを後期石窟として大別して特徴を語ることが慣例である。
前期仏教石窟
 仏教石窟の多くは西デカン地域につくられ、特にマハーラーシュトラ州に美術・建築的価値の高いものが集中している。石窟をつくるのに適した玄武岩による地形であったこともあるが、当時のアラビア海沿岸と内陸の王朝の都とを結ぶ通商路に関係した地域であったからである。人や物資とのつかず離れずの位置関係を微妙に保ちながら、仏教教団の維持がなされていたことをうかがわせる。
 前期石窟の典型としてはマハーラーシュトラ州バージャー仏教石窟群(紀元前一世紀頃、図2)を挙げたい。チャイティヤ窟である第12窟(図3)を中心に、左右に複数のヴィハーラ窟がつくられている。チャイティヤ窟はストゥーパを彫り出した奥の円形平面部分とその前方の矩形平面の広間が一体化した馬蹄形平面となり、ストゥーパの右繞礼拝のための通路が列柱によって形成され、まるで西洋の初期キリスト教時代のバシリカ教会堂建築のような形式となった。列柱は原形の木造建築を意識して内転びに刻み出され、天井には梁・桁・垂木にあたる木造部材が付けられる。そして外観的特徴である木造起源のチャイティヤ・アーチがファサードを飾る。まさに岩の中に木造建築をつくり込んだ姿である。なお、時代の下る例では木造部材の付加による空間表現がなされず、岩から直接彫り出すようになる。一方ヴィハーラ窟は比較的多様な平面形が許されたと思われるが、一般的に矩形大広間から多くの房室が展開する形式である。バージャーの例はもちろんだが、古いヴィハーラ窟では各房室の戸口にチャイティヤ・アーチが表され、同じ州のピッタルコーラ仏教石窟群では房室の内部天井に木造表現をとるものがある。古い時代ほど修行僧の空間を、洞窟的ではなく、建築的に表現しようとしていたのである。
 2世紀頃のヴィハーラ窟ではストゥーパの浮彫や祠堂を大広間の奥に設ける例が見られるようになる。端的にいえば、ヴィハーラ窟にチャイティヤ窟要素を取り込んだ形式である。こうした形式の発生の歴史的経緯については研究途中であるが、仏像成立によりストゥーパの位置づけが変化したことに関係すると思われる。  


図1 ローマス・リシ窟 入口装飾

図2 バージャー仏教石窟群 
配置図および第12窟断面図


図3 バージャー仏教石窟群
 第12窟外観
後期仏教石窟
 5世紀以降の仏教石窟には仏像を表現する空間が計画され、ストゥーパに代わって建築の中心に据えられた。仏像を祀る構築的な石造寺院建築もつくられはじめた時代でもある。こうした時代背景の下に成立した仏教石窟の好例はマハーラーシュトラ州の世界遺産アジャンター仏教石窟群である。この石窟群は紀元前後の前期石窟(第9、10、12、13窟)もあるが、最大の見所は紀元後5世紀後半と考えられている後期石窟であり、法隆寺壁画との関係で著名な壁画のある第1窟ヴィハーラ窟(図4、5)など、インド仏教美術の宝庫である。
 前期と後期とで空間構成が大きく異なったのはヴィハーラ窟(例:第1窟)である。広間の奥中央に前室を備えた主なる仏像のための祠堂をつくり出したことにより、石窟全体に中央軸線が生じ、また仏伝等をあらわす壁画や曼荼羅のような天井画の構成や列柱の配置等も主なる崇拝対象に対する儀式空間を意識したものへと変化した。ヴィハーラ窟が、修行僧の内向きの空間から拝殿(=広間)を持つ寺院空間へと変わったのである。さらに7世紀に比定されるエローラ仏教石窟の中には、平面形式は基本的にヴィハーラ窟と同じでありながらも、房室を持たず、仏像を並べるのみの石窟もつくられるようになった。一方、後期のチャイティヤ窟は、前期のものと基本的な空間構成は変わらなかったけれども、石窟奥のストゥーパは正面に仏像を刻み出し、ストゥーパ自体が仏像の背景になってしまった。実際にはチャイティヤ窟自体ほとんどつくられなかったのである。
 後期石窟では僧のための空間が仏像を祀る寺院へと変貌を遂げた。言い換えれば、仏教の本質であった出家僧の修行があまり重要視されなくなったともいえよう。また崇拝対象として、抽象的なストゥーパより、具象的な仏像の方が世俗の理解や愛着が得られやすかったことも変化に拍車をかけた理由であろう。しかし結果としてヒンドゥーの神々を祀るヒンドゥー寺院と同等の建築様式となり、仏教建築としてのアイデンティティの喪失につながったのである。

図4 アジャンター第1窟平面図


図5 アジャンター第1窟 内部

図6 アジャンター第19窟 内部
ののがき・あつし|1965年生まれ。
1993年名古屋大学大学院工学研究科博士課程後期課程単位取得退学。博士(工学)。名古屋大学助手、名古屋大学講師を経て、
2004年より愛知工業大学工学部都市環境学科建築学専攻助教授。
専門は建築史。
著書に『インドを知るための50章』(明石書店)、『建築史の想像力』(学芸出版社)、『世界宗教建築事典』(東京堂出版)