食べもの文化考第5回
子どもをめぐる食卓の風景
牧野登志子
(金城学院大学 生活環境学部教授)
「何故ひとりで食べるの?」
 1980年代の初め頃から、日本の食卓には大きな異変が始まっていました。1981年にNHKで放映した、「何故ひとりで食べるの?(題名は定かではありませんが)」という語りかけで子どもたちの食生活を取り上げた番組は大きな反響を呼びました。その時のプロジェクトが小学5年生を対象として行った調査結果によると、対象者のうち約40%が子どもたちだけで朝食をとっており(1982年の国民栄養調査では24.2%)、なかでも約18%の子どもは一人で朝食を取っているという現実は、当時、大人たちに大きな衝撃を与えました。また、そうした子どもたちの多くは、朝起きられない、体がだるい、便秘等、健康面でも深刻な問題を抱えていることも明らかになりました。その時放映されたエピソードの中でもとりわけ私のこころを捉えたのは、東北のある町でのドキュメントでした。
 近くに工場が建ち、お母さんは工場に働きに行き始めました。学校から帰ったお兄ちゃんと妹は空腹が我慢できなくて、インスタントラーメンをつくって食べます。ポテトチップスを食べることもあります。お腹が空いて晩御飯までは待てないからです。でもその結果、兄妹は晩御飯の時には、お腹が満ち足りているのでお母さんのつくった夕食を食べることができません。晩御飯を十分食べない子どもたちは夜寝る前にお腹が空いてしまいます。空腹では眠れないので、何かしら食べてしまいます。夜更かしをすると、朝起きることができない。朝、お腹が空かない。朝ごはんをきちんと食べられないという、悪循環に陥ります。体がだるい、貧血、便秘などの健康上のさまざまな歪みが彼らを襲います。
 私は、都会ではない、日本の片隅の町にまで空腹を満たすためだけの食が蔓延し始めているのに衝撃を受けたことをはっきりと記憶しています。「なぜ、ひとりで食べるの?」「ママはまだ、ベッドの中、パパはもう会社、だから、僕は一人ぼっちでご飯を食べるんだ」。
 あれから20年余り経ち、21世紀を迎えた日本では、子どもの食卓風景はどうなっているのでしょうか? 1993年の国民栄養調査では小学校高学年の子どもたちが朝食を一人で食べる割合は32.6%、中学生では41.7%となっています。さらに、朝ご飯を一人で食べるどころか、朝食を抜く子どもたちもかなり見られるようです。最近の子どもは小学校の高学年ともなると、塾に通う子も多く、その結果、遅い夕食や夜食を取る子も多く見られるようになりました。朝起きられない、食欲がない。その結果、朝食を取らないで登校する。朝ごはんを食べないことによるさまざまな弊害は、説明するまでもないことです。
独りで食べたい若者
 しかも、最近では、「何故一人で朝ご飯を食べるの?」だけではなく、夜のご飯も一人で食べる子どもが増えていると言われています。20年前の子どもたちは、一人で食べることの寂しさを滲ませた絵を描き、大人に一緒に食べてと、訴えかけていました。しかし、最近の子どもたちには弧食を寂しいと思うより、気楽、自由にできると捉える傾向が見られます。食事中に、家族から発信されるさまざまなお小言(?)は鬱陶しく、それよりも、テレビを見たり、漫画を読みながら、あるいは、メールなどをしながら一人で気ままに食べる方が良いと考えている若者が明らかに増えています。
 こうした若者たちは人とコミュニケーションをとるのが苦手で、自分の考えを他人に伝達する技術も未熟です。家族や友達、また、異なる世代間で囲む食卓は、コミュニケーション能力だけでなく、食べ方やはしの使い方などの基本的な食事のマナー、栄養の知識など、さまざまなことを自然に身につけることのできる大切な体験の場でもありました。賑やかな食卓の風景は、どこに行ってしまったのでしょうか?
 昨年の名古屋万博で「隣りのトトロ」を再現した、昭和時代の懐かしいお家を見た方も多かったのではないでしょうか? 畳敷きのお茶の間にちゃぶ台、システムキッチンではない土間の台所等などです。トトロのお家は、万博入場者に大人気を博したようですが、実際に住むとしたら、私たちは「住みたい」でしょうか?
 ちゃぶ台は折りたたみ式です。ご飯の時は出しますが、普段はたたんでどこかに立てかけてあるものです。それから、当時の一般的な庶民の生活はベッドではありませんでした。畳の部屋で夜はお布団を敷いて眠る。朝は、布団はたたんで押入れに仕舞います。敷きっぱなしのお布団は万年床などと言われて嫌われたものでした。
 ところが、今ではどうでしょうか? 日本の中流家庭では、お父さん以外の家族は大抵一人一部屋を確保しています。そこにはベッドがあり、机も多分あるし、椅子も当然あることでしょう。システムキッチンがあって、立派な食事用のテーブルは折りたたみ式なんかではないはずです。現代の家族たちは、自分の好きな時に起きても、電子レンジで「チン」すれば、温かい食事に簡単にありつけます。「システムキッチンは調理するためのものではなくて、インテリアです!」と大手キッチンメーカーの幹部は私に断言しました。確かに、食材を調達して、料理に仕上げて、家族が一斉に食卓を囲む必要がどこにあるのでしょうか? みんなが、それこそ子どもたちまでも忙しい現代の日本の実情では、家族で囲む食卓の風景は万障繰り合わせた、努力の結晶でもあるのです。
 お父さんもお母さんもお仕事をしている。子どもは塾通い。確かに、家族全員が集うのは物理的にも難しいかもしれません。しかし、心身ともに発展途上の子どもたちにとって、家庭は小さくても、将来の社会への窓口となる、大切な扉であると考えることができます。もしも、手と手を重ねたり、目と目と合わせるだけて自分の考えを相手に伝えることができたら、どんなに便利でしょう。しかし、現実には自分の考えは言葉を使って相手に伝えなくては通じないものです。
 ところが、最近、自分の考えを相手に伝える「会話」が苦手な若者たちが増えているといわれています。特に、若い男性にはその傾向が強く、知人と(家族も含めて)会食ができない、「会食不能症」という異常を訴える者もいるといわれています。
寛げる食事空間を
 人間にとって食事は「エサ」ではありません。みんなで囲む食卓は子どもたちのこころを育むために大切な役割を果たしているのです。他人と食事ができない、恋人とすら、会食することができないとは本当に痛ましいことです。
 家族が集うという点に視点を絞って、集う空間について考えてみたいと思います。以前に、素晴らしいリビングルームをつくったけれど、汚すのを恐れて家族がその部屋に近寄らなくなってしまったという話を聞いたことがあります。新築のお友達の家に遊びにいった娘は、椅子を引きずっても叱られ、カップをテーブルに置く時にも「そっと置いて」と言われ、とても疲れたと言って帰ってきました。
 忙しいみんなが努力して、時間を合わせて集まった食卓は楽しく寛げる空間であってほしいと私は考えています。見せるためではなく使う人のためのキッチン、傷がついても、味わいの出てくるようなしつらえの空間で家族が集い、寛げるような、ハウスではないホームをつくることも大切な要素であると思います。メディアで紹介されている、いわゆる素敵な現代建築には家族がつくり上げていく余地がない。真っ白であったり、黒で統一されていたり(黒は指紋が目立つ)、やたら、ガラス張りであったり、そこには完成された物体としての美は存在しますが、人が住み始めたその瞬間から、それは崩れはじめ、完璧ではなくなるのです(こうした家は完成した瞬間のみが100%です)。私は命の源は食であると思っていますが住宅の命は住む者のこころを癒し、育み、そして歴史を刻む場所であると考えています。
 新築の時だけ美しい家ではなく、歴史とともに深みと味わいの出てくる、そんな家が未来を担う子どもたちの心を育むと考えています。人間が、とりわけ子どもが住めば家は傷つき、汚れていきます。私はそうしたもの全部を包み込み、温かく見守るような空間が忙しい現代人の住処なのだと、思うのです。