保存情報第62回
遺したい故郷の文化遺産 川下(小原)水力発電所 塚本隆典/塚本建築設計事務所

遠景
  内部
■発掘者コメント
 当初、足助発電所を調査予定でしたが、昭和63年頃に建て替えが行われたとのことで、中部電力にお願いし近傍で同じころに建てられた発電所を探して頂いた施設が川下(小原)水力発電所で、現在、愛知県下矢作川流域ではほとんど当時のまま残っている施設はないということです。この発電所も大正時代に建て替えられ、その当時の姿に近い形で現在に至っているとのことです。  以下、2001年10月に中部電力から発行された「時の遺産 中部地方電気事業史料目録集」より記させていただきます。
矢作川を望む崖に建つ、三河電力発祥の地現在の中部電力で3番目に古い発電所であり、三河電力発祥の地でもある。大岡正を顧問技師に迎えて、1900(明治33)年に運転を開始し、田代川の水力を使用して名古屋、瀬戸方面に電気を送っていた。当時、まだ国産化されていなかった回転界磁形三相交流発電機の製作を明電舎に依頼、容量100キロボルトアンペアという当時では記録的な大容量の発電機を導入したことでも知られる。
 また、発電所の建物は矢作川水系の発電所で、唯一の木造建築であり今も大正時代の造りのままで、見上げれば、屋根に近い壁に電線を通すための3つの穴が残っている。切りたった崖っぷちに建つこの発電所は、今も当時の面影を残している。
 三河電力は1899年7月に事業許可を受け、1907年6月に名古屋電燈(1887年9月事業許可)と合併し、1939年には愛知県下8事業所が東邦電力に編成され、1951(昭和26)年5月、電気事業再編成の実施に伴い、9電力会社の一つとして中部電力株式会社が発足した。
 中部電力の担当者は、いわゆる「建築」として評価されうる建物ではなく、発電設備を覆う箱物との見解でしたが、当時の発電所の在りようを知る意味で貴重な資料に違いがないと意見が一致しました。
旧所在地(現在は豊田市) 愛知県西加茂郡小原村大字川下字大平453−4
設立者 三河電力株式会社
運転開始 1900年9月 1921年8月
設備改修
設備概要 127→375→380kW 使用水量 0.40m3/S
有効落差 128.05m
データ発掘(お気に入りの歴史的環境調査) 千種区西山元町界隈 高橋敏郎/愛知淑徳大学
■発掘者コメント
 日泰寺は明治時代に、タイ国王から(当時はシャム)釈迦の真正仏舎利を贈られ日本の仏教会が宗派の枠を超えて建立した寺である。建立当時は日暹寺(ニッセンジ)と称したが、国名の変更により寺の名称も日泰寺に変更されたものである。当初は一面の林の中に建立され、参道に面して仕舞屋(しもたや)が一列に並ぶ風景であったが、昭和の初期に周囲は区画整理が実施され住宅地と変貌するに至った。昭和30年代には名古屋の高級住宅街とまで言われるようになる。日泰寺を挟んだ向かいの東側には松坂屋の別荘(楊輝荘)もある。このあたりは中区に店を構える商店主などの別荘などもあり、一区画の大きさはかなり大きく、現在でも料亭や民家を改造した料理屋などが点在し、緑の多い住宅地となっている。
 25年ほど前から10年ほど、大正・昭和戦前期の「和洋折衷住宅」の研究をしていた際このあたりで多くの秀逸な洋風応接間を付属させた和風邸宅を発見した。名古屋は戦災により旧市街地の8割を消失した。この下の池下辺りには今も弾痕が残っているところがあるが、岡の上のこの辺りは消失を免れ、戦前の建物がかなり残され上質な住宅地を形成している。
 青や赤茶色の洋瓦、釉薬瓦で葺かれ、棟飾りの置かれた勾配の大きな屋根を持つ洋風応接間。壁面は下見張り、モルタル掃付け(スタッコ風)などもあり、アーチの窓や観音開の外開窓など、その優雅な意匠の数々は目を楽しませてくれる。
 時代の流れで、名古屋東部で発見した約950件の折衷住宅も建て替えがすすみ1/4ほどまで減少してしまっているがこの辺りから丸山町周辺にはまだ残存する。個人住宅のため詳細を記述することは出来ないが、当時の中流階級の好んだ住宅意匠と住宅地の風情を垣間見せてくれる街である。