タイルの魅力 第3回
タイル製造技術の工業化 〜マヨルカ島から発信されたタイル製造技術と 産業革命による工業化〜
後藤 泰男|蟹NAX タイル建材事業部
1. はじめに
 イスラム文化で発展したタイル装飾技術は、アフリカ北岸を経てイベリア半島へ伝播しアルハンブラ宮殿をはじめとする宗教建築に多用された。装飾に用いられたタイルは、錫を原料とした白い釉薬の下地に様々な顔料を用いて色絵付けされた錫釉陶器であった。この錫釉陶器は、スペイン・イタリアではマジョリカ陶器、フランス、ドイツではファイアンス陶器、オランダではデルフト陶器と呼称を替えて欧州の中を伝播した。当然、呼称だけでなくその地域の技術と融合し、製造技術も発展してきており、特にオランダからイギリスに伝わり、イングリッシュデルフトと呼ばれた錫釉陶器は、後に起こる産業革命とも相まって機械化と量産化による大きな変革を遂げることとなった(図1)。本編では、この欧州におけるタイル文化の流通と製造技術発展の過程をまとめてみた。
(図1)タイル製造技術の欧州での伝播の様子(15〜19C) (図2)イギリスの教会床の象嵌タイル
(グラッドストーン博物館展示)
2.マヨルカ島から発信されたイベリアのタイル装飾技術
 中世のオリエント・イスラム世界でのタイル装飾文化が華やかなころ、欧州ではギリシャ・ローマ時代からビザンチン世界へと受け継がれた石のモザイクによる壁面や床の装飾が主流であった。一方大理石を豊富に産出しないアルプス北部の国では、大理石に代わるものとして施釉タイルやモザイクタイルが使用され、教会の床などをタイルが飾っていた。この欧州北部を中心に発展したタイルは、有色の素地に低火度の鉛釉薬で表面を覆う鉛釉陶器であった。13世紀中ごろイギリスの教会の床を飾った象嵌タイル(図2)は、赤茶色の素地の表面に窪みをつけて白土や黄土で埋めた後に鉛釉をかけて焼成した鉛釉陶器の一つである。
 中世から近代にかけて、この鉛釉陶器の技術にイベリア半島で栄える錫釉陶器の技術が伝わることによって、様々なタイル加飾技術が発展してきた。14世紀から15世紀にイベリア半島で発展してきた錫釉の白い下地にクエルダ・セカ*1やクエンカ*2と呼ばれる手法で複数の色合いを表現したタイルや硫化銅や硫化銀を用いて金属光沢を表現したラスター彩タイルは、他の食器などの陶器と一緒に地中海に浮かぶマヨルカ島を経由してイタリアに大量に輸出された。イタリア人は、このマヨルカ島から送られてくる美しい錫釉陶器をマジョリカ陶器と呼んだのである。
 イタリア人はこのマジョリカ陶器を当時用いられていた鉛釉の技術などと融合し、独自の陶器技術を生み出していく。このため、実際にマヨルカ島を経由して輸出されたスペインの陶器をスパニッシュマジョリカ(図3)、イタリアで独自に発展したタイルをイタリアンマジョリカ(図4)として区別している。この2つのマジョリカの違いの一つに色数の違いがある。スパニッシュマジョリカでは、銅による緑とマンガンによる暗褐色、それにアンチモンによる淡黄色の2、3色しか用いていないのに対し、イタリアンマジョリカの色数は多く、アンチモンに鉄を加えた濃黄色やコバルトの青を濃縮した藍色など多様な色彩を用いている。後に、この色彩の多様さはスペインにも逆輸入され、後期のスパニッシュマジョリカにも大きな影響を与えている。
(図3)スパニッシュマジョリカタイル(17世紀) (図4)イタリアンマジョリカ壺(18世紀)
3.フランス・ドイツを経て オランダ デルフト陶器へ
 フランス、ドイツで16世紀以降の錫釉陶器をファイアンスと呼んでいる語源は、マジョリカ陶器を高めたイタリア最大の窯場であるファエンツアという地名に由来している。イタリアと隣接したフランスでは、16世紀に入ってから陶器制作活動が活性化しルーアン窯、ヌベール窯などの独自の窯場の特徴をした陶器を製造している。ドイツでのファイアンスの歴史は17世紀中頃からであり、イタリアのマジョリカの影響を強く受けながら、暖炉を飾ったストーブタイルなどの独自のタイル装飾を発展させていった。
 さらにオランダでは、オランダ共和国誕生(1609年)の1世紀ほど前、イタリアの陶工がスペインの属領であったネーデルランドの自由都市アントワープに移住しマジョリカを焼成する工房を開いたといわれている。この影響を受けた陶工たちがアムステルダム、デルフト、ロッテルダムに新たに窯を開いて陶器やタイルを焼いた。特にデルフトでは、近郊に良質の陶土を多量に入手でき、ギルド(職能組合)により陶工たちが保護されたことにより急速にその技術は発展し、デルフト陶器として世界中に知れわたった。
 デルフト陶器の特徴は、錫釉ベースの白地にコバルトブルーの色絵であり、景徳鎮(中国)、有田(日本)の呉須(コバルト顔料)による絵付けの影響を強く受けている。1602年の東インド会社設立後、欧州のデザインが中国や日本の影響を強く受けていることは、シノワズリーやジャポニズムという言葉でよく知られている。図5に示す1737年の年号の入ったデルフト陶器でできた組絵タイルは、当時のタイル工房の内部の様子を伝えてくれる貴重な資料である。
(図5)デルフトタイルによる組絵
(1階では馬が土練木をまわす様子、
3階では成形の様子など
当時のタイル工場の様子が描かれている。)
(図6)銅板転写によるタイル(ミントン社)
4.イングリッシュデルフトから   ビクトリアンタイルへ
オランダからイギリスに伝えられた錫釉陶器はイングリッシュデルフトとして称され、ロンドンから、ブリストル、リバプールへと伝えられ大きく開花していく。そして18世紀後半には本家オランダタイルと遜色がないものが商品化されていたが、当時イギリスのタイルは、オランダのタイルの半分の価格でしか売れなったという。このことは、その後、産業革命による動力化を積極的に取り入れ、機械化と量産を行う心理的な原動力となったことだろう。
 従来の手仕事から産業革命を窯業に採用し、近代窯業の発展に尽くしたのはリバプールで印刷業を営むサドラーであった。彼は銅版転写の方法をタイルに応用し、タイル絵付けの量産化を可能にした(図6)。また、ビクトリア時代(1837-1901年)には、粉末プレスによるタイル成形方法が発明され、ミントン社が実用化した。その後モウ社がこの手法に蒸気機関を採用してタイル生産は工業化されていくことになる。
 この時代のタイルは、自然主義、ネオゴシック、アーツ・アンド・クラフトなどの当時の美術様式の多様化ともあいまって様々なデザインによるタイルが生み出され、ビクトリアンタイルとして世界中に輸出されていった。これらのタイルは神戸や長崎の異人館にも使用されており(図7)、日本のタイルデザインへも影響を与えてきた。
5. おわりに (図7)ハンター邸(神戸)象嵌床タイル
 中世から近代にかけた欧州でのタイル装飾の発展の過程を追ってみた。その後、20世紀に入ってからもガウディのタイルを用いた建築など、欧州のタイル装飾はその国々の特徴を現しながら使われ続けてきている。21世紀となった今でも、欧州だけでなく世界中にタイル装飾による建物が建築されており、その国独自の技術・特徴を表現しながらタイル製造技術は発展し続けている。
*1)クエルダ・セカ;絵付けの輪郭に油性の物質を混ぜた顔料を用いることで釉薬の色合いが混ざらないようにする手法。
*2)クエンカ;絵付けの輪郭を凸に成形することで釉薬の色合いが混ざらないようにする手法。
参考文献
1)「マジョリカ・タイル」INAX BOOKLET vol.8No.3
2)「オランダ・タイル」INAX BOOKLET vol.7No.1
3)「ヴィクトリアン・タイル」INAX BOOKLET vol.5No.1
4)「タイルの美(西洋編)」前田正明、TOTO出版
5)「西洋やきものの世界」前田正明、平凡社