博覧会と地域開発 最終回
愛知万博における 会場地計画の変遷(後編)
谷田 真
(名城大学理工学部建築学科講師)
地域開発を前提とした計画案の先に
 今回は、愛知万博における会場地計画の変遷の後編として、前回(本誌8月号)、対象に選んだ6つの会場地計画案の中で、触れることができなかった、1)博覧会協会プロジェクトチーム案2(1999年)、2)博覧会協会プロジェクトチーム案3(2000年)、3)2005年日本国際博覧会基本計画(2001年)の3つを考察する。そして最終回として、これまで見てきた事例から、博覧会が地域開発に果たす役割をまとめる。
 なお、前回では、地域開発を推し進めたいとする姿勢が随所にうかがえた会場地計画案(1994年)に始まり、自然環境に配慮した会場地計画案(1996年)、自然環境との新たな共生モデルが示された会場地計画案(1999年)への変遷を辿った。また、それは、地域開発を前提とした跡地利用計画案とのギャップの大きさを露呈させるプロセスでもあったことを明らかにしている。

博覧会協会プロジェクトチーム第2案
グランドレベル(1999年)

博覧会協会プロジェクトチーム第2案
デッキレベル(1999年)

博覧会協会プロジェクトチーム第3案
(2000年)
閉塞化する会場地計画と跡地利用計画

2005年日本国際博覧会基本計画
愛知青少年公園地区グランドレベル(2001年)
 博覧会協会プロジェクトチーム案1の発表後(1999年1月、詳細は前回を参照)、愛知県によって「名古屋瀬戸道路」、「新住宅市街地開発事業(以下、新住事業)」の環境アセスメント結果が公開される(1999年2月)。その内容は「保全措置を施すことにより環境への影響は回避できる」という楽観的なものであったが、日本野鳥の会愛知県支部によって、会場予定地の森(海上の森)にオオタカの営巣が確認されると(1999年4月)、自然環境への影響を懸念する世論が高まる。メディアも大きく取り上げたこの発見は、プロジェクトチーム案2の発表を促すことになる(1999年9月)。
 この会場地計画では、これまでの会場地に加え、近接する愛知青少年公園(約180ha)の活用が検討されたため、約830haという広大な敷地が計画対象となった。しかし、先の会場地計画案からの変更はわずかであり、分散した会場地に展示施設等が再配置され低密度化が図られた他は、新規でITS(高度道路交通システム)隊列走行システムを組み込んだ低公害シャトルバスが導入された程度である。一方で、巨大デッキや水平回廊(詳細は前編を参照)を軸に展開する会場構成の考え方に変更はなく、これらが自然環境に配慮した確固たるアイデアとして位置付けられていることがわかる。
 跡地利用計画に関しては、海上の森での開発規模を再検討する方針が打ち出されるものの(1999年5月)、直後に愛知万博と新住事業を切り離さないことが、愛知県によって表明されており(1999年6月)、従来通り地域開発を進める姿勢を崩していない。
 反対派の活動がますます活発化する中、会場地計画、跡地利用計画のいずれもが、先の計画案に対し微少な変化にとまっていた状況は、当時の愛知万博に関連する計画が閉塞化していたことを示唆している。
見直された跡地利用計画による影響
2005年日本国際博覧会基本計画
愛知青少年公園地区デッキレベル(2001年)
 1999年11月、博覧会国際事務局(BIE)は「自然環境破壊をもたらす愛知万博の跡地利用計画がBIEの理念に反する」とのコメントを発表する。この発言は関係各所に大きな波紋を呼ぶことになり、博覧会協会プロジェクトチームによる最後の計画案発表へと繋がっていく(2000年)。
 この会場地計画では、当初から検討されてきた海上の森での展開が抑えられ、愛知青少年公園が会場地の中心となる。海上の森では、わずかに造成された土地(16ha)に国と自治体のパビリオンが配置され、そこから1本の水平回廊が森を体感できる仕掛けとして延びるのみである(全長1km程度)。逆に愛知青少年公園では、既存施設(温水プール、アイスアリーナ、愛知県児童総合センター、愛知国際児童記念館)の利用も視野に入れながら、必要な博覧会施設すべてが、平場を中心に高密度に押し込まれ、さながら地方博覧会の様相を呈している。
 跡地利用計画に関しては、ここに来て新住事業が白紙化され、海上の森に整備予定であった建築(研究施設、国際交流施設、研修施設、住宅等)やインフラ(新交通システム、名古屋瀬戸道路等)が見直しの対象となる。
 会場地計画における、海上の森からの撤退は、跡地利用計画に見られる地域開発の見直しに起因しており、博覧会と地域開発との密接な関係が再認識できる。
消えた自然環境との共生モデル
2005年日本国際博覧会基本計画
海上地区(2001年)
 博覧会協会プロジェクトチームによる最終案が発表された後、計画案の検討は環境保護団体もメンバー加わった愛知万博検討会議(13回目以降はフォローアップ会議に名称変更、この会議での合意によりBIEの正式登録に至る)の場に委ねられる。途中、会場地拡張案をめぐり混乱をきたす時期もあるが、ただちに組織されたプロデューサー体制によって改善され、「2005年日本国際博覧会基本計画」の発表へと至る(2001年12月)。これをもって会場地計画の検討は事実上終了する。
 この会場地計画では、先の計画案をベースとしながら、リング状のメイン動線(水平回廊)が愛知青少年公園の中央に提案され、その動線と絡むように博覧会施設群がクラスター状に再配置されている。かつては象徴的に扱われていた、海上の森の水平回廊は完全に見直され、愛知青少年公園に残る森の中に、里山遊歩コースとして面影を残している。
 跡地利用計画に関して、愛知青少年公園では現状復旧を原則とし(一部記念公園、恒久施設残置)、海上の森では周辺住民を中心に広く県民の意見を取り入れながら、保全と活用の方法を検討していくとしている。
 十数年に及ぶ紆余曲折のプロセスの結果である、地域開発を伴う博覧会の見直しが、貴重な自然環境を保護する結果をもたらしたが、一方で、これまで謳われてきた自然環境と人との共生モデルを形骸化させ、海上の森への将来ビジョンの提示を先延ばしにさせたとも言える。
博覧会が地域開発に果たす役割
 これまで6回にわたり、国内外の博覧会を事例に地域開発との関係を概観してきた。いずれの博覧会においても、開催を契機に地域開発を推し進めるための工夫が確認できた。特に国外の事例では、インフラや恒久施設といったハード面の工夫にとどまらず、所有主体や出資方法といったソフト面の工夫にまで踏み込んでいた。一方、愛知万博の事例では、長年にわたり計画案が検討された末に、密接に関連づけられてきた地域開発が見直された。
 これからの博覧会が果たせる役割を考えたとき、地域開発の契機として、それを促進させる役割だけでなく、愛知万博開催に至るプロセスで期せずして証明されたように、滞った地域開発計画を顕在化させ、再考させるという役割も期待できるのかもしれない。
*図は全て公式記録より抜粋
たにだ・まこと/1971年生まれ。名古屋大学大学院修了。工学博士
※1)Parque Expo 98 S.A.『Parque Magazine Number 9』2000