心と建築 第5回
心をつくる建築物
武田 雄二
(愛知産業大学造形学部建築学科助教授)
 これまでは、「心のしくみ」を考えるとともに、心がどのように働き、どのように建築空間を捉えているかを述べた。また、「心の在りよう」がさまざまな建築物をつくり出すことにも触れた。  本稿では、「心をつくる」という観点から建築物の役割を考えたい。さらに、本連載のまとめとして私見を述べたい。
〈感性の鋳型〉としての建築物
 建築物を設計するとき、建築を専門とする私たちは、頭の中に建築物の外観や内観を思い描く。そして、見える情景を想像し、空間の大きさや仕上げ材料の肌合いなどを確認しながら、その内部や周囲を歩き回る。そのような確認を済ませ、それを図面で表現する。
 でき上がった建築物の中で、設計者が頭の中の空間に感じ取ったものと同じものを人が感じ取れば、設計は成功である。建築物の外観や、建築物がつくり出す周囲の環境についても同じである。
 このように考えると、建築物は設計者の〈感性の鋳型〉であると言える。そして、建築物が〈感性の鋳型〉としての働きをもつならば、建築物によって人々に設計者の想いを伝えることができる。
〈文化の伝承装置〉としての建築物
 図1に示す例では、囲炉裏を囲んで人々が向き合って話をしている。囲炉裏のある伝統的な民家では、家族がお互いの顔を見ながら、さまざまな会話がなされたと思う。
 ときには、その傍でいろいろな作業が行われ、それを若い世代の家族が見ることもあったと思う。そのような場において、人はものの考え方や物のつくり方を、知らず知らずのうちに次の世代に教えることになる。
 すなわち、建築物を介して最も身近な社会の〈文化〉である家族の生活様式を伝えることができる。このとき、建築物は〈文化〉の伝承のための〈装置〉もしくは〈場〉として捉えられる。
 次に、家族という小さな社会ではなく、より大きな社会の〈文化〉を伝承するための建築行為について考える。
 たとえば、図2に示した東大寺の「二月堂」やアッシジにある「サンフランチェスコ修道院」などは、洋の東西は違っていても〈自然〉と〈人間〉の共生の方法を示唆しているように思える。
 この例では、建築物によって「〈自然〉である地形を活かして〈人間〉の活動との協調を図る」という〈文化〉のあり方を、伝えているように感じる。
 以上のように、建築という行為は1つの建築物によっても、またその集合である町並みや街並みによっても社会のもつ〈文化〉を伝えることができる。
 このように考えたとき、図3に示したように、いたる所で見られる現代の騒音ならぬ〈騒景〉や借景ならぬ〈失景〉は、次の世代に何を伝えるのだろうか。


図1 囲炉裏端

東大寺二月堂

(a)〈騒音〉の例

(b)アッシジにある「サンフランチェスコ修道院」

(b)〈失景〉の例
図2 〈自然〉との共生法の伝承 図4 〈騒音〉と〈失景〉
まとめ
 人間の心と建築の関わりについて、我田引水しながら述べてきた。ここで、今の私が考えている事柄を、「心の科学」としての〈仏教〉における概念との関係で述べる。そして、そのことによって本連載のまとめとしたい。
 一つは〈空(くう)〉をどのように捉えるかである。このことについて、図4を用いて私の考えを示したい。
 まず、〈無〉の対照概念を〈有〉とする。そして、〈空〉は決して〈無〉ではなく、エネルギーが満ちた状態であると考える。
 また、この〈空〉は〈実〉と〈虚〉が調和し、一体となったものとして捉える。何かのきっかけで、人が見ることのできる〈実〉(〈色〉と言える)が現れたとき、〈虚〉も同時に存在すると考える。そして、この状態を〈在〉と名付ける。
 このように考え、〈有〉には〈空〉と〈在〉という状態があると捉える。建築行為との関連を考えれば、建築物という〈実〉をつくることが、その内部や周囲の環境および人間の心という、形が見えない〈虚〉をつくり出すことに該当する。
 次に、〈執着(しゅうじゃく)〉について述べてみたい。
 図5に示したように、人間を含めた生物は円の中心を意識しながら、きれいな円を描くことが〈自然の摂理〉に従う生き方だと考える。ここで、円の中心を意識するとは〈法(ダルマ)〉に従うことだと考える。
 生きる中で、人間は「心の働き」の一面である〈あたま〉注1で〈方便〉(〈知恵〉とも捉えられる)を考え出す。そして、それが成功すると、そのやり方を続けようとする。このとき〈執着〉が生じ、なされる行為は〈自然の摂理〉から外れる。
 このことは、住宅公団の行った建築行為の中に顕著に現れていると思う。
 公団は戦争の後の廃墟の中で、人々に人間らしい生活の場を供給するという目的を果たした。しかし、公団は成功の後も手法を変えようとせず、同じ行為を繰り返した。その結果として、社会のニーズとかけ離れた物をつくり続けた。
 また、学歴社会における学校間の評価に格差が生じる過程にも、同じものを感じている。
 具体的には、設立者が高邁な理想を抱き、賛同者とつくった学校が優秀な人材を輩出した結果、その学校の名前だけを権威とする者が現れることである。  すなわち、学校の名前だけに価値を認め、設立者やその協力者たちの精神を学び、受け継ぐ意志が希薄な人たちが現れることである。彼らは、その学校に入ることを最終目標とし、なりふり構わぬ受験勉強をさせたり行ったりする。
 〈社会の流れ〉と〈自然の摂理〉との乖離が大きくなりすぎると、革命や戦争の名の下に大きな崩壊が起きる。
 そのような事態をひき起こさないためには、人々の「心の在りよう」の点検が必要となる。それには、〈法〉を意識することが重要である。そのときに求められる「心の働き」として〈こころ〉があると考える。
 〈自然の摂理〉に従う、きれいな円を描けないのが人間の宿命かもしれない。そうであれば、なおさらのこと常に自身の「心の在りよう」を見つめ、正しいと感じる方向に軌道を直す必要がある。  そのような修正を行うことによって、擬似的ではあるが、人間の生き方としての円を描くことができる。そのときに、人間は〈智慧(ちえ)〉に基づく生き方、あるいは〈大人覚(だいにんがく)〉注2に基づく生き方ができると考えている。

図4 〈空〉の概念

図5〈智慧〉の構造
【参考文献】
澤木興道:『正法眼蔵講話 坐禅箴・八大人覚・四摂法』、大法輪閣、2000
注1 本連載の3回目の稿で、「心の働き」には〈あたま〉と〈こころ〉の2面があることを述べた。
注2 〈仏教〉の祖である釈迦の最後の言葉とされている。それは、〈少欲〉・〈知足〉・〈楽寂静〉・〈勤精進〉・〈不忘念〉・〈修禅定〉・〈修智慧〉・〈不戯論〉の8つである。これらは物事を悟った真の大人(だいにん)の心の状態を表しており、〈八大人覚〉とも呼ばれる。