JIAと私D

JIAの楽しみ方
梶田 英夫
JAA入会まで
 1964年米国留学を終え、2ヵ月半かけてヨーロッパ、中近東、東南アジアの建築、都市を見学しながら一人旅を続けてやっと日本にたどり着いたとき、待っていたものは早速生活のために働かなくてはな'らないという現実だった。しかし3年のブランクのあとですぐに仕事があるわけもなく、親戚、知人を頼って事務所開設の挨拶廻りをしていたとき、当時JAA会員だった楢原敏彦さんから「ぜひ建築家協会に入りなさい」と勧められた。実は名古屋工業大学在学中にナラハラ建築設計事務所からのアルバイト募集があり(当時は設計のアルバイトなどほとんどなかった)、早速飛びついて港区にある事務所で住宅か何かの図面を描いたことがあり、そのご縁で帰国後お会いした。楢原さんは名古屋高等工業学校(現・名古屋工業大学)の機械科卒業の先輩に当たる。入会勧誘を受けたときの楢原さんの言葉で印象に残っているのは、「協会の会員になるとメーカーからカタログがたくさん送られてきて役に立つ」というのであった。最近は毎日送りつけられてくるDMやFAXはむしろ迷惑に近いが、当時は確かに情報入手の方法としては役に立った。私がJAAに入会した動機は全く単純なものであったが、これを機会に人生は意外な方向に展開していくことになる。
大学の非常勤講師への勧誘
 当時JAAに名城大学の講師だった志水正弘さんがおられた。私が海外の都市・建築を見てきた話をしたところ、ぜひ建築学科の学生たちにスライドを見せて話してほしいとのこと。当時は海外の建築情報も多くなかった時代だから、おそらく学生たちには大変刺激になったと思う。それが縁で名城大学に去年まで38年間お世話になることになった。建築の設計以外に教える楽しみと「教えることは学ぶこと」の諺通り、日々の建築の勉強やコンペの応募をできる限りやる生き方に傾倒していった。
家協会コンベから東海学生卒業設計コンクールの時代
 当時、名城大学の建築学科に同じくJAA会員で故人になられた牛山勉さんがおられて、1971年から1980年までの愛知県建築士会の設計競技の後をついで、JAAで10回シリーズの設計競技を行う企画がありその審査員にと誘われて、第2回目から第10回目まで設計競技の審査をすることになった。審査員とはいっても入賞賞金の資金を集めるために企業の協賛をお願いに廻るのが大きな仕事で大変な苦労をした。佐久間達二、故広瀬一良、故五十嵐昇(敬称略)の諸先輩に、中島一、神谷義夫、第7回からは栢本良三、稲石嘉郎の諸氏が加わり、ゲスト審査員として一回毎、茶谷正洋、内井昭蔵、東孝光、上田篤、長谷川逸子、渡辺武信、宮脇檀、井上章一、鈴木昭男、関根伸夫の諸氏カ三加わって白熱した議論が戦わされた。審査会後、夕食の席でゲスト審査員を囲んでの懇談が楽しみで勉強にもなった。
 1995年鋤納忠治さんからJIAで東海学生卒業設計コンクールを企画するから協力してほしいとのこと、何となく10年余り委員としてお手伝いさせていただいた。
研修委員会の時代
 1999年高齢の母が亡くなって自由の身になり、長年の海外旅行の夢が実現可能になる。研修委員会に熱心に出席し始める。研修委員会では2年毎に海外研修旅行を企画していたのでそれに積極的に参加する。見学旅行や講演会も委員会では活発な活動をしていたので、できる限りの協力をする。2002年のインド、2004年のブルガリア・ルーマニア・ハンガリー、2006年のモロッコ〜アンダルシアの研修旅行は私にとってかけがえのない思い出になった。
 42年間JAA,JIAにお世話になりながらあまりお役にも立たず、ただ楽しませていただいたということに内心忸怩たる思いがある。この間、建築設計業界の変遷はまことに激烈であったが、実感として「昔はよかった」ということで、建築の世界に限らずすべての世界で人心の荒廃が進んでいる。資本主義経済による豊かさも、高度情報社会も私たちの未来に必ずしも明るい夢を与えてくれるものとは言えない。せめてJIAの人たちだけでも「正義感」を失うことなく「孤高」を守り続けて行きたいものである。